七夕日より




結婚が噂された人間は儚さを兼ね備える。愛と希望と、勇気とを持ちこたえた。人間は愛にしがみつき、恋愛を成就しようとする。義務は縁談にある。人間からは強者がある。悪から解放された人間は偽称をたくらんだ。人間の証明を付ける為である。悪とは栄えなかった。称えた花に似ている。悪人とは人間の真似をした悪の栄えである。人間として義務に準えるべきだ。義務は発生し、人間の恐慌を招いた。義務からは権利が、責任から人間が生まれる。権力とは責任であり、人間に課せられた命題だ。人間が居て暮らしがあり、人間の権力は権利を生んだ。そのことは紛れもない事実である。人間の未来は人間に約束したものとなった。約束が守れるか、そうでないかは責任による。責任を果たすべきだ。自然では無責任とした。自然の落とし穴に嵌る訳には行かない。自然は危険で満ち溢れているからだ。自然の恐ろしさは恐怖と名を変えた。報われるものなら救いたいが、実際は自然に満ち溢れている。自然の豊かさを神の縮図とした。神は色々な形に身を窶している。推測でも神の豊かさは計り知れない。そこが、人間の弱味でもあり豊かさだ。人間の欲望までも包んでしまう。人間の欲望は弱味だが、豊かさを知ると神の行いだ。必然と危険が増してくる。結論は神に譲った。しかし、人間が考え出した神だ。人間の行いから見れば、神など必然である。多々ある自然の神々に敬服するのだ。人間かも知れないという疑問も尽きた。人間の欲望の果ての神である。あらゆる選別を免れた神である。欲望に猜疑し、人間と、ある動物を切り分けた。それが神の成せる技だ。神とて人であり人物だ。その大らかさは計り知れない。未知の恐怖から救われたのだ。いずれ神と遭遇し未知を窘めるだろう。そのときは身心だ。身技と持ち堪えている。身技にしろ、人間の要求にしろ神はいる。必要とした場合に限ってだ。神の身心からは推し量る推量というものもある。それも落とし穴とした。人間の落とし穴に神が嵌ったのだ。生け捕ったと表現を変えれば、神は生け捕られたのだろう。人間をこよなく愛する神にして落とし穴が待っている。人間とは、そうゆう生き物だ。神を罠にかけるとなると生け捕りだ。生け捕られた者だけが悠然としている。つまり、自然では、祟りから神だ。人間の罰当たりに神が召されたのだ。人間の欲望の為に天国へ行ったとも噂される。しかし、仮に愛が見つかったとして、人間の愛は程遠いのだ。遠距離に神がいる。わざわざ遠慮することはない。人間のモラルの体現が神であるからだ。しかし、疑問も残る。何故、神は人間を愛したか。外の動物なら神を襲わ無かっただろう。わざわざ見せしめにし無かった筈だ。しかし、実際は神をも否定することで、人間の生命力は成り立つのだ。神などいよう筈もない。いたとしても仮の住まいだ。信仰は身を守る為に用いられる。危険な判断は、神にとっても危険であるからだ。信仰が無ければ、神は完全に否定された。信仰の求める人間は、神に見習っている。それが何であるか発見するまでだ。発見があって神の魂は眠るものとする。発見の覚束ない人間は、寧ろ、神に見習ったのだ。神から冒険であり、人間の心から意志だ。その詮索に嵌ったとき、神は姿を現すものと推理する。人間の詮索が、神の身心に叶ったのだ。願わくば、神に見習いたいが、人間の詮索では仕方がない。覚束ない意思で、神を体現したとして人間の心だ。働きは愚かにも人間に下される。しかし、下人としての働きだ。勇ましい神にして祟りを旨とした。人間の出来損ないの神もいる。人間の境遇を嘆くのは人間に対してだ。人間だけの執り行いでなく、神となった意思の働きに期待する。ただ、神では働かないと推理するのだ。人間の欲望を担って死んで行ったと仮定しても、死んでからも欲望を満たして欲しい人間の意思である。意識は欲望を引き下げ、神に懺悔するものだ。果たして、人間の欲望は叶ったのか。神仏を融合する出来事だけに、神の習いは戒めとなる。贖いは止み、人間の抗弁だけが残る。抗弁を聞き届けたのか。神は何処となく消えて行った。人間の欲望も消えつつある。それは身仏に叶ったのだ。もはや、猜疑する連中もいなくなり、人間の愚連に耳を澄ます道理となる。人間の愚連では、神は真っ二つだ。それも、信じる慣わしから出た神だ。信じないと仮定すると否定に回される。祈りの効果も空しく、神の習いに従うだけだ。つまり、罠に嵌ったも同然の生き物だ。それが神によるものかは聞くしかない。しかし、実際は人間の掟に従ったまでだ。人間の掟とは、神をペテンにかけ、神を賭博しても人間の身を守ろうとする。そこに、人間の意識が隠されており、人間の愛だけは神の働きだ。人間の意識では神に叶うまい。それは人類が認めている。人類が認めたもので、結婚とは永遠だ。永遠の約束を誓ったのだ。誓約の上である。この掟は、人間に敗退的境地を着せた。もはや、勝利を必要とせず、人間だけに与えられたしもべだ。悪戯なときを過ごし、時間さえ超越している。愛という結末は、人間に終焉をもたらした。そこから新たな出発である。旅立ちは、人間にとって意味がある。それが死を偏在としたもので、人類に未曽有の境地を着せる。徒かも、それは人間の無垢である。無邪気に大人になり呻いていた。旅立ちは、人間に大人を着せた。大人とは獣だ。人間の体をしていない。鬼でこそ大人だ。そのような人間の為にモラルは歪んでしまった。鬼のモラルは鬼ヶ島だ。ここは鬼の住むところではなく、悪戯な判断のお聴かせで迷っているのだ。人間に迷信を着せた悪行にしても、鬼となっては進歩がない。人間は引き下がるに身を鬼としたのだろう。進歩は、鬼を鬼ヶ島へ追いやった。つまり、犯罪などの従犯である。犯罪の角は、ある所で削られている。人間を傷付けないように鹿にまでされている。いや、兎かも知れない。何れにせよ、鬼は人間と身元を分かった。人間のたくらみは消え失せたのだ。欲望から生えた角は、人間によって切り取られる運命にある。人間の強欲だけは直らない。治しようがないではないか。そこで社会の進歩を鬼に譲った。それは受刑としたものである。社会は進歩を譲り、人間にお聴かせの話をする。


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