東文彦全集・第三巻




 いかにしてニイチェ主義者が国家主義者になるか。また何故に自由主義者が愛国者ではないか。それはきびしい自我の追求から生まれる。自我はなにによつて自我であり得るか。それを思うことは、自我を生み育てた血と土への反省にかかわる。かくて自我主義者は国家主義者となる。すでにしばしば、ニイチェは自らの家系について語っている。彼の運命観もまた、つねに自己の出生の動かし難い必然を物語る。運命は改変できない。彼はその運命をむしろ愛せよと教えている。運命を見きわめ、それに耐えること、それは彼にとって最も美しいことであった。しかし、それは彼にとって決してたやすいことではなかった。同様、国家を愛すること、それも決してたやすい道ではない。たやすい道を歩こうとする自由主義者たちが絶対に愛国者であり得ない所以(ゆえん)である。自由主義者の云々(うんぬん)する愛国とは、改変し得る運命としての国家愛である。それは血と土につながらない。契約(けいやく)としての国家に於(おい)てのみ妥当(だとう)することである。彼等はより有利な契約を結ぶことに彼等の愛国を感じる。そしてさらに有利な契約があれば、また新たなる国家へと。畢竟(ひっきょう)、彼等は愛国者ではない。
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 永遠に自由はない─優者と劣者があるところには、つねに束縛(そくばく)が生まれる。優者がたえず優者であるためには、劣者がたえず劣者でなければならないからである。しかしまた、すべて平等であることは、もう決して自由ではない。つまり、永遠に自由はないのである。
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 人道主義とは─懐(ふところ)を痛めないで人を慰(なぐさ)めることである。懐を痛めることは、もう自分にとっての非人道である。
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 言論の自由─まったく冷淡な夫婦のあいだでは、言論は自由である。
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 人間味を肯定(こうてい)すること─人間味を肯定するのは、どんなことでも肯定してしまうことである。なぜなら、人間はどんなことでも考え、どんなことでも考えるのは、充分に人間らしいことだからである。上役(うわやく)が威張(いば)るのも、下役(したやく)が上役を憎むのも、すべて人間味である。
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 悪人─気に入らない奴(やつ)は嫌な奴である。ところで、世間は嫌な奴を悪人であるという。つまり道徳の標準が「自分」なのである。
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 ピカソ( *)……古典的な絵を描かせたら、彼は素晴(すば)らしく巧(たく)みであろう。彼のさまざまな新しきものへの模索(もさく)は、ひょっとしたら、自からの巧みさへの反逆であったかも知れぬ。
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 マチス( *)……家具も調度(ちょうど)も、窓のそとの景色さえも、ここにあるものはすべて主人のこころを脅(おびや)かさない。幸福な人間がひとり坐っている。
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 ルノアル( *)……素晴らしい舞踏会、たとえ招かれなかった人達が嫉妬(しっと)しようとも。
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 だまされてはいけない。彼はわが日本を、彼の信仰(しんこう)するエリアの僕(しもべ)とするという、まさにそのことに於(おい)てのみ日本への愛を感じたのである。彼の愛したのは、悠久三千年の輝かしい歴史をもつ、神の国日本ではない。彼の愛したのは、いまだエリアの恩寵(おんちょう)を解(かい)しない、しかしいつかはそれを解するだろうと考えられたところの、のぞみある野蛮(やばん)国(こく)日本だったのである。神の国日本を愛するものよ、だまされてはいけない。
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 風雅(ふうが)の実体という文章について─
 (みやびの文学の心情は、今日の実行の根源となるものと、かなり異なるものであろうが、われらが歴史の民であり、みかどの民であるという、言うにいわれぬ美しい情緒(じょうちょ)の絶対は、このみやびを思う情緒がつちかって来たものである)
 (その時代の文学が、恋愛文学だという如(ごと)きは、末端(まったん)の考えかたである)
 (単に時代の伴(ばん)奏者(そうしゃ)にすぎないなら、今日では文学者は無用である。時代の伴奏者という卑(いや)しいことと、輝くみいつ( *)の荘厳(しょうごん)威儀(いぎ)の師匠(ししょう)だということとは、全然別のことである)
 右の保田氏( *)の所説は正しい。しかし、これはまだ総論である。さらに進んで、過去の文章のすべてにわたり、右の立場からの真僞(しんぎ)の鑑定(かんてい)が行わるべきである。それが現代の文学者に対する親切というものだ。
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 物的幸福の飽(あ)くなき追求は、他の犠牲によってのみ支えられる。なぜなら、物質はすべての人間を潤(うるお)すほどに豊富ではないから。また欲望には限りがないから。
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 自分の運命を選択する自由意志が人間にあると信じているのは、一度も事、志(こころざし)と違ったことのない幸福な人間だけである。病気にでもなると、われわれはどうしても運命論者になる。戦場に立つべく約束されている現代の青年もそうであろう。どうしても立向わなければならぬ運命であることを見きわめると、われわれはその運命のなかで、せい一ぱい生きようとする。運命は、実は、そういう人間以外のすべての人をも包(つつ)んでいるのであるが、彼等はそれに気付かない。そして他愛のない自由意志の夢をみているのだ。
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 軍人が上官に絶対服従し、なんの懐疑(かいぎ)もないのを不思議に思うなら、彼等が自由意志を妄信(もうしん)し、それが他からの意志が加わったものでないと信じ込んでいるのも、共に不思議がられていい筈(はず)である。
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 「観(み)る」だけの人間に禍(わざわい)あれ!
 私は「観る」。しかし「観る」だけではない。私は私を「感じる」ことによつて私は「観る」だけでいることを許さない。
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 自分自身を制御(せいぎょ)し得ない人間に、民族、国家の運命を打開する力はない。
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 あの時分、すべてがうまく行かなかったのは、医者のせいではなくて、私が悪かったのかも知れない。しかし医者よ、誇(ほこ)ってはいけない。私が悪かったのは、医者の云うことをきかなかったからではなくて、ほんのしばらくでも、その云うことをきこうとしたからなのだ。医者の云うことをきくために、私は私でない、他のものになろうとした。つまり私の運命を改変しようとした。それがいけなかったのだ。



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