日本と台湾における通過儀礼の比較研究

- 葬送儀礼を中心に:社会学的分析 -




人の一生は限られた時間と空間の中で営まれている。その時間と空間がさらにいくつかの区切りに分けられている。人間がその区切りの間を移行するに伴って何らかの危険を感受することがある。そのため、一般には区切りを通過する儀式が行われなければならないとされている。1908年にA・ファン・ジェネップ(Arnold van Gennep 1873-1957)が人の一生に、妊娠から誕生、生育、成人、結婚、死などの折節は人生の区切りに例えて、その通過時に行う儀式を「通過儀礼(les rites de passage)」と呼んだ。それ以来、日本の民俗学者や人類学者や社会学者などがこの用語を使うようになってきた。通過儀礼の考察は単なる儀礼だけではなく家族、親族、地域関係や広い社会問題や宗教なども深く繋がっている。通過儀礼の研究範囲の広さが伺われる。

一方、日本でも「通過儀礼」と同じような考え方があった。まず、1935年に日本の民俗学者柳田国男が『郷土生活の研究法』という著書の中で「ハレ」と「ケ」という概念を出した。ハレというのは特別な時空間で即ち節目もしくは折目を意味する。ケというのは日常の時空間で即ち、普段の生活である。また、柳田国男が編集した『歳時習俗語彙』という本の中にハレと同じような言葉である「トキリオ」を使用している。これは奈良県一帯に使われ、盆、正月、祭礼その他農家の休みの日をさしている。トキリオの反対語は「アイダ」である。即ち、日常の生活である。そして、波平恵美子や宮田登などの学者がさらにハレとケの間である「ケガレ」という概念を出した。即ち、人の一生はケ、ケガレとハレとの連続循環である。ハレはケガレから脱出するための一つの手段であると言う。

ところで、ハレとケという考え方は西洋にもあった。20世紀最高の宗教学者と言われるルーマニア、ブカレスト生まれのミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade 1907-1986)によって書かれた世界的に有名な『聖と俗』という書物の中で聖と俗の概念を詳しく紹介している。エリアーデによると「日常的な生活が営まれている俗なる時間は、聖なる時間によって中断される。そして、聖と俗を区別する存在は、聖なるものの顕現である、具体的には特定の儀式となって示される。俗なる時間をいったん中断して、聖なる時間へと入り、さらに聖から俗の時間に移行する場合、人間はある種の危機的状況に陥るという。その危機は儀礼を行うことによって回避しょうとする。」との論説であった。

また、井之口章次は通過儀礼が霊魂信仰の中で位置を、家族、親族関係、もっと広い社会関係の三点にしぼって考えた。氏によると「人生儀礼の各段階は絶えず霊を更新する必要があった。そうしてその場合に、前の段階の存在が否定され(殺され)、新しく次の段階に生まれ変わる儀式を伴うことがある。模擬的に人を殺し、新たに誕生した形をとるのである。」


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