転職




 四谷駅構内の混雑も、八時に近づいた頃にはなくなっていた。二人がプラットフォームに出ると、 快速側のホームに藤枝部長と一緒のはずだった谷川室長の姿があった。藤枝部長の姿はなかった。丁 度東京行きの快速がホームに入ってきたところであった。室長は電車に乗ることに気が行っており、 黒岩達には気付かなかった。
「今日の会は、何かしんみりしすぎていましたね」
「そうかしら? 黒岩さんが元気がなかった所為よ。でも、まあ、たまには良いんじゃないですか? 仕事 をするばかりが良いことじゃないのよ」
 待つ間もなく、黄色い電車が入ってきた。電車に乗りこむと、黒岩は持参の重い鞄を網棚に乗せた。
「彼女も、早く落ち着いたほうが良いのよ。磯崎さんも、気が多いのね。結婚したら、直るでしょう」
「さあ、どうですかねえ? 僕は、彼女は結婚しても変わらないのじゃないかと思いますよ」
「それはどうか分かりませんが、確かに、磯崎さんには一般常識では考えられないようなところがあ るようね。時々、商売を間違えたのではないかと思うようなところがありますわ」
「こんなこと言ってはいけないのですが、彼女には、確かに娼婦のようなところがありますね」
 箱崎は、黒岩の言葉を肯定するかのように、話を続けた。
「この間の夏電算室の皆で箱根へ行ったときにも、横山さんや黒岩さんがいるのに、中村さんとあん な調子でしょう。普通の女の子でしたら、そういうことにはもっと神経質になってもいいと私は思う の。もっとも、あの中村さんも人が良くないですからね」
 八月の下旬、電算室の連中は毎月積み立てて来た資金で箱根まで一泊旅行をした。中村滋夫は他の 部の人間であったが、一緒に参加した。その時、中村と磯崎美絵子は終始手を繋ぎ合って行動してい た。横山はそれを目の当りにして、中村と磯崎の後を絶えず追い掛けていた。それを見ていた誰もが、 まさに中村と横山が磯崎を奪い合っているとしか判断できなかった。横山は、結局中村に勝てなかっ た。横山は、帰途は流石に諦めて若林達と行動を共にした。中村、磯崎、清家、箱崎、黒岩の五名は 若林達と別行動となり、葦ノ湖畔からバスで新宿まで戻った。横山がいなくなった後、中村と磯崎は 更に密接に寄り添い瞬時も離れなかった。バスに乗っても二人は同じ席に寄り添い、お互いに手を握 り合っていた。箱崎も清家も黒岩も、これには呆れ返っていた。新宿駅でバスを下車すると、二人は 忽ち一緒に姿を消してしまったので、その先二人がどういう行動を取ったか分かるものではなかった。
 因に、中村は三十一、二の良い歳になる男であった。黒岩は、このときばかりは、磯崎から完全に 超越することができたような気がした。
「最近の黒岩さんは、目が覚めたみたいね。良かったと思いますわ。人それぞれの生き方があるとは 思いますけど、彼女は、黒岩さんの相手ではありませんわ。黒岩さんには、もっと別の人が相応しい と思いますわ。でも、黒岩さんには良い体験だったのではありませんの。私は、全然そういうことが ないのも良くないと思っていましたわ。谷川室長も、随分心配していましたよ」
「そうですか」
 黒岩はそのことは分かっていたが、箱崎に口を合わせた。
「彼女と結婚する人は、気の毒だと思いますね」
「どうして?」
 黒岩はしまったことを口にしたと思った。箱崎には説明できないものがあることに気付いたからだ。
「あんなに浮気っぽくては、始終心配しなければならないですからね」
 それは、正確な返答ではなかった。しかし、本当のことが言えないからやむを得ないとも思った。
「それは、好きで結婚するんだから、良いんじゃないですか?」
 黒岩は、黙った。早くも代々木駅であった。黒岩は、網棚から鞄を下ろした。
「それでは、失礼します」
「今晩は、早く休みなさいよ。たまには、何もかも忘れてぐっすり寝なさい」
「寝ます、寝ます」
 黒岩は、笑い顔を見せながら下車した。箱崎にはお構いなく、ホームをどんどん歩いた。ふと、黒 岩の念頭に一つの懸念が浮かんだ。
『磯崎は何処へ消えてしまったのであろう? また横山と一緒なのか?』
 黒岩は、ついこの間まで、自分がこのホームで磯崎と待ち合わせていたことを思い出していた。


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