生命倫理と教育倫理




思い起こすに、大学で「教育哲学」の講義を初めて担当した当時 (平成9年)、哲学プロパーの私は、自分の専門分野である純粋に哲 学的な内容に終始し、教育に関する問題を取り上げることはほとん どなかった。当時の私は、そもそも「教育哲学」という言葉さえ知 らなかったのである。しかし、それでは現在の私が、いくらか「教 育哲学」なるものを熟知しているのかといったらそうでもない。教 育哲学、教育思想、道徳教育、教育学などを冠した学会にも多数入 会してはみたが、その境界は未だに判然としない。教育哲学会の研 究発表の題目が日本哲学会の研究発表の題目とあまり相違がないの には驚くばかりであるが、このことは教育学という学問の歴史的成 立を考えれば、それほど奇異なことではないのかもしれない。

ある教育学会で出会った教育哲学の研究者が言っていたが、教育 哲学を専門とする人は(不思議にも)純粋に哲学を専門とする人に 強いコンプレックスをもっているそうである。彼は、哲学関係者が、 教育関係者の書いたものを読もうともしないことに強い不満をもら していた。

しかし、純粋に「哲学」のフィールドにいる人たちは、現在の教 育状況の異変にここ十年ぐらい前から気づいている。大学での一般 教養の意義が疑われだして以来、特に現実社会と乖離した哲学・思 想研究が社会的に必要とされていないことを危機的に感じ出してい るのである。「臨床哲学」といった新しい名称の出現はその象徴的 な出来事であろう。

軌を一にして、倫理学、倫理思想といった従来の学問領野とは明 確に区別される形で、応用倫理学に属する標題をつけた著書・論文 を目にすることが多くなってきた。生命倫理学・環境倫理学・情報 倫理学・企業倫理学・ビジネス倫理学・工学倫理学等、数え上げれ ばきりがない。これに加えて「教育倫理学」という言葉も脚光をあ び出してきた。また新しいカテゴリーが教育学の分野に登場するこ とによって、その枠組みの概念規定にも注意を払わなくてはならな くなってきている。従来、「教育」と「倫理」の関係は、ヘルバル トの「教育の目的」という文脈を挙げるまでもなく、教師の職業倫 理としても主題化されてきた。現在、教育倫理学を主題とする時に は、その臨界上にある分野にも目配せをする必要がある。教育哲学 に対応する(実践的)教育倫理学なのか、他の応用倫理学に並立す る(応用倫理学としての)教育倫理学なのか、道徳教育に対する (広義の)教育倫理学なのか。教育倫理学の位置付けは、それを語 る人によって揺れ動いているのが現状である。

教育倫理学という名前で教育の倫理を問うとしたら、教育全体の 営みを善なる営みとして前提し、その個々の教育目的・内容・方法 等に関して倫理性を問うというのが本来の課題でなければならない はずである。ところが、教育哲学プロパーから問われだしているの は、前提となるべき教育全体の営みである。教育を一つの暴力に類 似する概念として捉え、教育そのものの善性に疑義を抱き、教育の 概念を根本的に反省しようとする言説は、極めて思弁的な論理性を 追及する姿勢を生み出している。教育が「規範的な意味をもってい る」という人類史上暗々裡に前提・承認されてきたような事柄に疑 義が向けられ始めているのである。

前提とされている教育概念にこのような疑義を向ける論理的思考 が、前提自体を覆そうとする意図を内包しているとしたら、その彼 岸に何を見通そうとしているのだろうか。その疑義が本当に目指し ているものは何であろうか。純粋な哲学的姿勢とは相違して「教育 をよりよくするために」という目的的視点から、前提となっている ものを確認し、取り戻すという作業は必要ないのだろうか。教育思 想・教育哲学プロパーは、まず教育について「語ること」に関心を もち、「教育自体」に関心をもつことは稀である。「教育」は、古代 ローマの思想家キケロの「尊厳」概念にみられるように優れて人間 的な営みであり、教育に否定的概念を付与することは同時に人間自 体を否定することに通じているということを研究者はもう一度確認 しておく必要がある。もし仮に、人間の尊厳を損なうような言説が 可能であるとしたら、それは教育とは隔離された無関係な空間でし か成立しないはずである。しかし、現実には、例えば、環境倫理の 領野で、生態系維持のために人間を犠牲にすることを是認する言説、 あるいは人間より他の生物により多くの尊厳が存在するというよう な言説は学説として決して珍しくない。こういった学説に対して教 育はどう対応すべきかという課題は決して避けられない教育的課題 である。環境倫理的な思考形式が教育学という牙城にまで無反省に 押し寄せていることに対して、私たちは危惧を抱かざるを得ない。 もし教育倫理学が、応用倫理学と一線を画し、何らかの積極的な役 割を担うことがあるとしたら、教育の伝達的行為に内在する倫理的 規範によって応用倫理学の言説に制限を加えることができないかと いう課題を考えてみることである。教育の善性を否定する立場は、 教育の積極的な意義の否定だけではなく人間の尊厳をも消失させて しまう危うい状況を生み出している。


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