愛国婦人会@

(愛国婦人会の設立と確立)




1900(明治32)年、日本は義和団の乱に乗じ中国に出兵し、北清事変が起こった。愛国婦人会の主唱者である奥村五百子は、このとき真宗大谷派の北清軍慰問団に加わっていた。途中、義和団との戦いで荒らされた天津の日本領事館に立ち寄ったとき、領事夫人の鄭浜子が負傷兵らに献身的な活動を行ったと聞き、心を動かされた奥村五百子は、戦死者遺族救護のための婦人団体創立を考えついたという。北清慰問団が帰国途中の韓国の仁川で、居留民団役所で教育会が開かれた。ここで奥村五百子は軍人救護の必要を説く演説を行なった。釜山でも同様の講演を試みよい反応をえたため、帰国したら軍遺族のための婦人団体をつくろうと意気込んだ。

1901(明治34)年1月9日に上京した奥村五百子は、旧藩主小笠原長生を訪問し、戦死者遺族救護を目的とした婦人会の趣旨を述べ協力を仰いだ。1月14日、小笠原に連れられて近衛篤麿を訪ね、北清軍慰問使の報告をし、婦人による軍事救護団体の必要性を強く語った。近衛篤麿と奥村五百子は1月中に3度相談し、近衛篤麿が山脇房子 に会って意見を求め、婦人による軍事救護団体設立は急速に実現に向かっていった。

近代日本で愛国婦人会より前に、いわゆる上流階級の女性が団体活動するようになるのは、明治10年代の鹿鳴館の時代からのようである。たとえば1984(明治17)年6月12日から3日間、鹿鳴館では、「高位貴顕の婦人方総揃いで」慈善大バザーを開かれ、大山捨松・伊藤博文夫人の梅子、井上馨夫人の武子・森有礼夫人の恒子らが手製の雑貨や手芸品3,000点を出品し、華族の令嬢や高官婦人らが直接売り場に立ったと新聞に報じられている(『郵便報知新聞』 1884年6月12日付)。このバザーをきっかけに婦人慈善会が組織され、定期的にバザーや慈善音楽会を行なって寄付金を集めたり、欧米流の知識を学ぶ集まりや親睦会や交際会が持たれるようになっている。

大日本婦人衛生会は、1887(明治20)年11月23日に日本初の女医荻野吟子が中心となって、「汎く婦女子をして人生の健康を保持するの方法を講究し衛生上の智識を開発せしめ随て社会全般の幸福を増進する」ことを目的として設立された。月1回衛生講演を行ない、『婦人衛生会雑誌』という定期刊行物を発行している。1891(明治24)年頃からは、大日本婦人衛生会の総裁には皇族が就任し、鍋島栄子・大山捨松なども入会し、活動は大正末まで続けられた 。

同じ時期に、欧化主義傾向を憂えていた華族女学校教授の子鹿島筆子、東京女子師範学校教授の棚橋絢子、元の麹町女学校校長で華族女学校教授の木村貞子らが、1887(明治20)年、東京婦人教育談話会を設立した。この会は下田歌子、武田錦子らの賛同をえて、翌年大日本婦人教育会と改称され、総裁に閑院宮妃智恵子、会長に毛利安子、副会長に鍋島栄子を置き、貴婦人を会員にしていった。大日本婦人教育会では女子の教育目的は、「男子を補佐し一家の福祉を図り子弟の教育を主り男子をし内顧の憂なく専ら外務に従事」(『大日本婦人教育会雑誌』、1888年12月号)させることとし、毎月講演会を開き、機関紙を発行して啓蒙活動を行なった。明治30年代からは鳩山春子・三輪田真佐子らの発言が、その機関紙に多く掲載された。

もう1つ長続きした婦人団体としては、日本赤十字社篤志看護婦人会がある。1877(明治10)年西南の役のとき、日本赤十字社の前身である博愛社が設立され、1887(明治20)年万国赤十字社に加盟して日本赤十字社となった。特に看護婦の募集のため、日本赤十字社篤志看護婦人会は、有栖川宮妃薫子を総裁に、鍋島栄子を会長に、三条治子・毛利安子・伊藤梅子・山県友子・井上武子・西郷清子・大山捨松らを発起人として設立された。

上流夫人や女性教育家たちは、さまざまな婦人会に重複して参加していることがわかるが、愛国婦人会はこれらの婦人団体にすでに集まっていた名望家婦人たちを重要メンバーにしていったのである。

1900(明治32)年2月6日、近衛篤麿の貴族院議長官舎で軍事援護のための婦人会に関する相談会が開かれ、この席で近衛の案で名称が「愛国婦人会」と決定した。設立相談会に集まったのは、近衛篤麿・小笠原長生・堀内文次郎陸軍少佐・近衛の妻貞子・下田歌子・山脇房子と奥村五百子であった。この席で趣意書の起草が下田歌子に依頼され、39人の発起人が選ばれた。この時発起人となったのは、公爵夫人一条悦子・公爵夫人岩倉久子・公爵二条洽子・公爵世継夫人九条恵子・公爵夫人近衛貞子・公爵夫人島津田鶴子・伯爵夫人大山捨松・伯爵夫人板垣絹子・伯爵世継夫人大谷章子・伯爵夫人大隅綾子・伯爵夫人松平充子・子爵夫人伊東美津子・子爵夫人岡辺?子・子爵夫人小笠原秀子・子爵夫人谷玖満子・子爵夫人松前藤子・男爵夫人花房千鶴子・男爵夫人千家俊子・伊集院千世子・鳩山春子・原礼子・濱尾作子・河野関子・片岡美游子・嘉納須磨子・武田錦子・山脇房子・山本たほ子・後閑菊野・江原縫子・跡見花蹊・佐藤猶子・佐方鎮子・相馬陸子・三輪田真佐子・島田信子・下田歌子・森村菊子であった。39人の発起人のうち18人が、公爵伯爵男爵の夫人である。

発起人たちのもう1つの流れは、婦人教育者や婦人問題の論客といわれる女たちである。武田錦子・佐方鎮子・後閑菊野らは、女子高等師範学校教授か教諭であり、跡見花蹊は跡見女学校校長、三輪田真佐子は三輪田女学校校長、下田歌子はすでに1899(明治32)年に実践女子女学校を設立していた。愛国婦人会内での婦人の地位は、「中央役員は総裁に皇族妃、会長・理事は華族・資産家夫人、県レベルの支部長は知事夫人、以下郡長夫人、市町村長夫人がそれぞれ郡幹事部(のち廃止)、委員区(のち分区)の長となり、夫が顧問となった。寄付金額、新会員紹介人数に応じた有功章のランクもあり、要するに愛国婦人会内の位置は夫の地位と金次第であった 」と評される。しかし独身の教育者たちも発起人に選ばれ、また評議員として高い位置をえているから、総てが「夫の地位と金次第」というわけではなかったといえる。


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