真の人間




投函して、三日経った。

午前十時過、芳賀は安田講堂正面の銀杏並木を歩いていた。法文経五号館の教室へ向かっていた。

パーリ語の授業に出席するために、大きな辞書を傍らに幾時間か予習をした。芳賀は、それでも何か自信がなかった。要するに、学校の授業全てが、芳賀にはつけたしに過ぎなかった。打ち込むことのできるものではなかった。今は、手紙を書くことだけが生き甲斐だった。此処半月の間に、いつの間にかそんな生活になっていた。

あの手紙では、随分言いたいことを書いてしまったような気がしていた。特別芳賀の印象に残っているのは、やはり、彼女の思想に真正面から反意を表明してしまったことであった。ある面から思い返すと、それは非常に爽快な痛快なことにも思われた。しかし、別の面から思い返すと、どうも不味かったのではないかと反省の気持ちも生じた。そう反省し出すと、心の爽快感は急に萎んでいった。手紙に反感を抱いて、彼女が急に疎遠になって行くような不安感すら覚えた。此処二、三日、そんなことの繰り返しであった。

芳賀はまた、授業に対する不安とは別に、ふとその不安に取り付かれた。全く嫌な思いであった。彼女のような素晴らしい性質の女性も、結局そんな感情に取り付かれてしまうのか? ふとそんな風に感じてしまうと、人間を信頼することに対する絶望感のようなものに襲われるのであった。それは、芳賀にとっては心の支えを失うことに等しかった。

芳賀は、銀杏並木の中央の道を離れ、右手の並木を横切った。五号館への入口は、そちらのほうにあった。芳賀は、今日が木曜であることを忘れてはいなかった。木曜は、かって彼女に邂逅することの一番多かった曜日である。

『今日は多分、彼女に会えるに違いない』

芳賀の足が、入口に差し掛かった。そこは、トンネル型の庇になっていた。くすんだ古レンガで作られており、地面に近いところは、緑の苔のようなものが僅かにこびり付いているように思われた。

芳賀は、そこへ足を踏み出そうとした。その瞬間、中からふいに人が出てきた。芳賀は、思わず立ち竦んだ。同時に、アッと声を発していた。ピンク色の服だった。


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