幕末伝習隊





 清吉は二十三才になった。もう生活にも慣れて、江戸の人間になりきっている。町人の子供達に読み 書きを教えて、糧を得ながら何とかやっている。
 ちなみに清吉は武者清吉郎と変名している。塾生達は各藩士が多かったから、それなりの体裁をつけ るために変えたもので、最初はこそばったかったが、今は全くその気になっている。それにしても良い 名前だ。
 名付け親がいる。それも、通りすがりの者。
 その日は雨にもかかわらず、日本橋からずっと南へ、本屋めぐりをしながら歩いていた。暇であれば 退屈しのぎに何か面白い本でもないかと本屋めぐりをするのが清吉の習慣だ。
 丁度、芝口橋へ差し掛かったところでやけに体の大きい侍が歩いてきた。着物袴は大分着込んでいる もののようであり、雨のせいだけでないのが見て取れる。浪人の風体である。左手を懐にいれ、肩が少 し落ちている。
 傘を差さなければ溶けてしまうのではないかと思うほどに雨脚が強くなってきた。
 皆、足早に駆けて行く
 その中を男は意に介する風でもなく悠然と歩いていたから、その姿は一層目立っていた。
『変わったお方だ』ちょっとした畏怖を感じながら清吉も歩を進め、互いにすれ違う。近くで見たら何 の事はない。眉を眉間に寄せて、さも困ったような風である。
 ほう、よく見ればなかなかかわいい面構えの男じゃないか。そう思うと、
「あの……もし」どういう風の吹き回しか、清吉は男に声をかけた。
「ん? なんじゃ」
「ぶしつけではございますが、このひどい雨の中歩くのはいかにも大変だ。よろしかったら傘に入りま せんか」
 武士に相傘を薦めるとは驚いた話だが、
「おお、そうか、助かる。是非頼みいる」と、男は頭をかがめて入ってきた。上背に大分差があったか ら、清吉も傘を持つ手を高く掲げた。
「どちらまで」
「築地までじゃ」
 どうせぶらぶらしてたんだ、付き合ってやるかと思い、
「そうですか、それじゃあ、すぐそこではありませんか。私もそこまで同行いたしましょう」と言った。
「ますます、助かる」侍は喜んだ。
 二人揃って歩きながら清吉は、
「何しに?」と聞いてみた。
「いや、特に訳はない、海を見にきたのだ」と男は言う。
 海をねぇ、この雨の中海岸端にでるために傘も差さず歩いてくるとはものづきもいいところだが、そ ういう侍に傘を差し出した自分も人のことを言えない。清吉は思わず苦笑いをしてしまった。
 多分に興味をもって、
「お国はどちらでございますか」と聞いてみると、
「俺か、俺は土佐の生まれじゃ」多分に訛りがつよい。
「そうですか、私は越後です」清吉はすずやかな江戸言葉で答えた。
 築地本願寺を東に向けて橋を渡り、南小田原町を抜けて南本郷町まで来ると、その先はもう海。
 潮の匂いでいっぱいだ。
「うーん、やっぱり海はいい、なぁ、おい、そう思わないか」大きく息を吸い込み、伸び上がる侍に清 吉は慌てて傘を持つ手を高く掲げながら、
「ええ、そうですねぇ」
 二人の隣には幕府海軍操練所がある。老中堀田備中守の屋敷跡だ。
 そして眼前には練習艦である観光丸が停泊中。オランダ製の蒸気船であり、少々くたびれていたもの だが、やっぱりそこは洋船だ。なかなか立派に見える。
 凄い。幕府が海軍を作るのだということぐらいは江戸にいれば耳に入ってくる。しかし間近に軍艦と いうものを見てみると、その威容に清吉も妙に感動を覚えている。
 それにしても軍艦というものはばかでかいものですなぁと、侍に話し掛けようとしたら、
「越後と言えば、上杉謙信だな」と逆に侍のほうから話し掛けてきた。他国人と話をすると必ずでてく る台詞。その度に清吉はうんざりさせられる。
「はぁ、そうですかねぇ。私はあんまり好みません」簡潔明瞭に応えた。
「何故だ。義に厚く、生涯不敗。越後人にとっては誉の武将ではないか」
「生涯不敗。私にとってはそこが気に入りませんねぇ。百戦百敗しても、その度に立ち上がり、戦うな かで、段々勝つ体制を整えていく。そういう方が私は好きなんです。負けを知らないなんてのはおもし ろくもなんともない。有為転変があり、その中で必死に頑張る。最後朽ち果てたとしても、その人生は 無駄ではない。絵になるし、それだからこそ美しい……山中鹿之助がそうじゃないですか。私は謙信の その神ががり的強さにむしろ興味をそがれる。むしろ徳川家康のほうが余程人間味があって好きです」
 山中鹿之助は戦国時代、出雲尼子家に仕えた勇名の武将。大勢力である毛利氏と戦い抜いた末に捕縛 され斬られた。挫折に挫折を重ねても、再起したその姿は遠く、越後にまで伝え聞こえている。我に七 難八苦を与えたまえという鹿之助の台詞は有名なもの。
「……と聞いた風な口ですが、実は私の先祖が上杉に敗れたものですから」と清吉が話したところ、侍 は目を丸くして、
「おンし、いい事いうなぁ。俺もそっちの方が好きじゃ。負けることについてはうちのご先祖様とて相 当なものだぞ。何しろ、明智だからのう」
「ええ、あの明智光秀ですか……」
「左様、最も名は明智ではないぞ。落ち武者ゆぇ、実名ははばかられたのであろうかのう。近江にあっ た居城坂本城にちなんだ名で今は通しているがな」
 先祖様は変名しているというわけだ。そして明智と言うが正確にいうとその一族。先祖は豊臣秀吉に 敗れた後、土佐へ逃れ、豪族長曾我部元親に仕えて四国平定に尽力した。しかし改めて関が原に敗れ て、長曾我部氏が滅亡すると、その子孫は乗り込んできた徳川方である山内家に召抱えられることもな く、下士として厳しい差別待遇を受けて今に至っている。
「どうだ、おンしは一度だが、俺の先祖は二度敗れておるぞ」さも得意そうに侍は言った。両者は負け 具合を比べているのだから妙なものだ。
「お見逸れしました」
 後は海を見ながらあれやこれやだ。全く意気投合した。侍は下士で微禄ながらもれっきとした藩士で あることが分かったが、口調はおよそ侍らしくない全くくだけたもの。それに会話すればするほど何の 気遣いもいらない。どんどん吸い込まれるようなこの懐の深さは何なんだろう。
 土佐人は気持ちがいい。国にはいないタイプだ。そう思うと清吉の口調は一層軽やかになり、饒舌に なった。識見は清吉と侍とでは月とすっぽんの差がある。清吉はかじった洋学含めいろいろと論じた。
「こうして幕府が、日本が、四海に乗り出す準備をしている以上、いずれ洋学が学問の潮流になります よ。私は一介の書生ですが、いつかどこかで登用の道が開けるものと信じてこうして頑張っているので す」と清吉は言った。
「ふむ。おンしは物知りじゃのう。俺も見習いたい」侍は感心しきりという風である。
「なぁに、私だって国にいた時は西洋人は鬼だと臆面もなく言っていた口で、無学極まりないものでし た。学問をやるに遅きに逸するということはないですよ。貴方様もおやりになればよい」
「うーん……でも、机に向かうのは苦手でねぇ」
「そうですか、それでは仕方ない。知りたい事、やりたい事があってこその学問ですからね」
「いや、やりたいことはある」
「それはなんです」
「話を聞いてみて、なんかこう漠然として申し訳ないのだが、おンしが言うように海に出るような勤め がやれたらいいと思っておるのだ」と侍は観光丸をちらっと見やりながら言った。奥歯に物の挟まった ような口調である。
 入りたいのである、幕府の海軍操練所に。
 しかし入れるのは幕臣もしくは大名の推薦を受けた者達のみ。叶うべくもない夢に思いをはせ、こう して海を見に来ているのだ。
 清吉もそれを見て取った。
「なんの、時代は大きな流れのなかにある。流れるということは、動くということだ。動くということ は、変わるということだ。人生も同じ。変わるよ」
 清吉は、この操練所の頭取が勝麟太郎といって微禄の出であることを思い出し、
「望みを捨てることはありませんよ。聞けば、ここの支配筋は微禄の出だそうです。要は我々貧乏人と 同じですよ。夢は叶うもの、度々ここに来ていれば、そのお方がふと気にかけて声をかけてくれるかも しれない」とひどく稚拙な内容で励ました。
「それでは秀吉のようではないか」侍も思わず吹き出しそうになった。
 雨が止んだ。
 ずっと立ち話も苦にならないほど面白かった。
「おンしは書生にしておくのは勿体ない男だ。しかし、清吉ではいかにも軽い。ここは一つ新しく姓を 名乗ったらどうじゃ」
「姓? ねぇ、とんと思いつきませんが」
「なぁに、先祖に思いを馳せれば簡単ではないか。武者清吉郎というのはどうだ」
「あっ、それ、いいですね」
「そうだろう。俺もまさか赤の他人に名をつけることになろうとは露ほどにも思わなんだ」
「なにやら身が引き締まるような気がする。ありがとうございます」
「いや、俺の方こそ励まされた礼をいう」
 その後、
「いずれまたお目にかかれることを楽しみにしております」と言って清吉はその男と別れたが、やがて はたと思った。
『はて、彼の名前は何と言ったっけ?』後ろを振り向いてみたものの、侍の姿はもうそこにはなかった。


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