「記憶の河」を渡った旅人たち




人の「記憶」は決して堅固な城ではない。それは「忘却」に絶えず襲われる砦だ。だからこそ「記憶」は「再記憶」されなくてはならないのである。忘却に対抗するため、われわれは常に「再記憶」することを求められているのだ。しかし「再記憶」する意志がわれわれの側になければ「記憶」はいつの間にか忘却の彼方へ消えていくだろう。だが記憶が健在である限りわれわれは「過去」との絆を失うことは無い。確固たる記憶を保持する限り「過去」との邂逅は可能であり、真実の過去を知る力さえわれわれは享受することができるだろう。

ところで過去の出来事を記録に留めたのが歴史であると一般には受け止められている。しかし歴史に記された過去の出来事は時には事実と異なる場合もある。出来事をありのまま、事実のみを記述したはずの歴史ではあるが、それを記述した人により、また時代により、その出来事が異なる姿で伝えられていることがある。従ってわれわれが記憶を辿り、それを「再記憶」して過去の世界に辿りつくとき、それが個人的なものであっても、あるいは祖先や民族の過去であっても、みなわれわれの歴史である。ただ問題はそれをどう受け止めて心に記憶するかが最も重要であり、それはわれわれの問題というべきだ。

歴史研究家の兵藤裕己氏は言う。「歴史とはそれをいかに物語るかと言う語りの問題(1)である」と。つまり歴史とは与えられるものではないということだろう。言い換えれば、「歴史」とはいかにわれわれがそれを物語ってきたかと言う問題なのだ。

作家にとって「記憶する」ということはどういうことだろうか。記憶に伴われてわれわれがたどりつく過去は多くの場合、個人的なものであろう。しかしそれもまた「歴史」の一頁なのである。本書で取り上げたホーソーンの場合はかれの心に刻まれた祖先の過去があった。しかもそれはホーソーンにとっては重い十字架であったと言えよう。時の流れに押し流され、風化されたとはいえ、ホーソーンの祖先たちが残した過去はあまりにも大きすぎたし、重すぎたのである。だからそれはホーソーンにとって生涯かけて背負うべき十字架となった。その重さに耐えていくためにホーソーンは過去の記憶を再記憶することで、自らの世界にその重荷を移し替えようとしたのである。それがホーソーンの創造した世界であり、ホーソーン文学の世界であった。

過去の出来事は例外なく忘却と言う誘惑に常に晒されていることは周知のとおりである。従って人は思い出したくない過去であればむしろ進んで忘却の力にそれを譲るだろう。しかし人によっては、あるいはある民族にとっては、忘れてはならない過去もある。誰かがそれを守り、記憶し続けなければ、やがては忘れられていく運命の過去だからだ。もし誰もその過去を守らなければ時の経過と共に風化し、忘れ去られることは必定だ。それをなによりも、だれよりも恐れる人にとっては、それはまさに恐怖だ。この恐怖心が人をして己の過去を忘却から守り、風化させまいとする行動に走らせるのは自然の理である。そして忘却と闘い、過去を守り抜こうとすることが己の使命だと決意させるのである。フォークナーの場合も、モリスンの場合もそうであった。

フォークナーの場合は、かつての栄華を誇った南部貴族社会の亡霊たちがいた。彼らに突き動かされたかのようにフォークナーは南部の歴史を語り伝えることを天命と感じたに違いない。無論南部の歴史には苦い過去の遺産があった。しかし南部の歴史と真正面から対峙したフォークナーはあの奴隷制度がいまだに死滅してはいないことを知ったのである。それは「レーシズム」という仮面をかぶり、大勢の過去の亡霊たちに守られて今も生きている現実である。無論南部の人にとって決して喜ばしい遺産とはいえないが、その空気を吸い、その土壌にはぐくまれて育ったフォークナーは祖先たちの過去をむざむざ忘却の陣営に譲り渡すようなことは断じて出来ることではなかったのである。断固としてそれを拒んだかれは南部の歴史を丸ごと自分の世界に引き取ろうとした。難解な作品『アブサロム、アブサロム!』はそうしたフォークナーの戦いの記録であり、記憶に残る遠い南部への追憶でもある。フォークナーの作品はどれも歴史への畏怖の念に彩られていて、まさに歴史的遺産というべきものであろう。

モリスンの世界は、さらに深刻だ。三百余年にわたって人間性を抹殺され、奴隷として生き抜いてきた先祖たちの体験を自らの魂に刻み込み、それを歴史に残すという重い運命を背負ったのである。それが作家としての天命だとモリスンは受け止めたのである。だからいかなることがあろうとも先祖たちの過去を決して忘却の餌食にさせてはならないと決心したにちがいない。彼女は忘れられた祖先の歴史を、また民族の過去を、作家として文学の世界に昇華させたのだ。しかし人の心は移ろいやすく、黒人も白人も今のアメリカはこの苦い遺産である奴隷制の古傷を忘れようとしている。それは思い出すにはあまりにも重過ぎる十字架だからだ。しかしモリスンは過去の記憶を再記憶することで、この十字架の重圧に耐えた。それは民族の過去とその歴史を語りつづけていくことにより、民族の魂を守り伝えることが出来ると確信したからである。事実そうした確信があればこそ、「記憶の河」を渡ることができたのであり、芸術性豊かな作品を残すことができたのである。それは『ビラヴド』であり、『ジャズ』であり、『ソロモンの歌』であり、また『パラダイス』である。

本書は、過去の記憶を「再記憶」することにより、それぞれの過去とその歴史を己の世界によみがえらせた三人の作家を取り上げた。「記憶の河」を渡り、過去との邂逅を果たした彼ら旅人たちが、その想像力によって、どのようにして「過去たち」と語り合い、それを物語の世界に昇華させていったか、また彼らがいかにして新しい文学世界を創造しえたか、それぞれの代表的作品において検証した。

それは自ら祖先の身代わりとなって過去の過ちに対して綴った贖罪の記録であったり、あるいは祖先が残した「負の遺産」を、己の十字架として背負い、呼び戻した亡霊たちと共に歴史を追憶する書であったり、はたまた忘却という誘惑を断ち切り、過去を再記憶することにより民族の歴史を今に語り継ごうとする営みである。この三大作家の作品を読み解くことで、いかにして「記憶」の世界から新しい文学世界が生まれ、もう一つの「歴史」が語られていくかを、読者とともに考察できれば筆者にとってこの上もなく幸甚である。



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