戦時体制下の愛国婦人会C−2




1937(昭和12)年7月7日、北平郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し盧溝橋事件が起こった。翌7月8日中国共産党中央委員会は、全民族抗戦声明を出した。7月11日には日本軍特務機関長松井太久郎と中国天津市張自忠との間で盧溝橋事件に関する停戦協議が一端成立したかにみえたが、日本政府では同日閣議で陸軍3個師団の派兵が決定された。翌7月12日には中国国民政府も抗日決戦を決定し、中央軍に動員令を発した。7月17日には蒋介石と周恩来が会見し、いかなる解決も中国に主権と領土を侵してはならないとしながら、平和的解決を要求する対日交渉の声明を発表した。7月26日、北支への駐屯軍は、中国側に最後通牒を手交し、7月28日には日本軍が華北通州を襲撃し、7月30日鎮圧する。

この事変が勃発すると愛国婦人会は、直ちに体制を整えて起ち上っている。『愛国婦人会四十年誌』によると、1937(昭和12)年7月15日夜、陸軍省は事変後の状況に備えるため、一部の出兵を発表することになっていた。前日の7月14日、愛国婦人会本部は、香月支那駐屯軍司令官と長谷川第三艦隊司令長官宛に次の電報を発して、愛国婦人会としての銃後における覚悟を表し、将兵の武運長久を祈った。


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