夕凪前後




私は忘れていた。すっかりと忘れてしまっていた。忘れまいと誓う必要もない程に忘れるはずのないことだったはずの事を私は、跡形もなく忘れていたのだった。何時忘れてしまったのかも、何時まで覚えていたのかさえも思い出せないほどに私は忘れていたのだった。漸く忘れてしまっていたことに気付かされた瞬間の心の動揺が少し治まりかけたときに、私が認めることができたのは三年ほどは忘れずにいたと云うことだった。そしてそれ以降は時折、申し訳程度に思い出す程度で、少なくても十年以上は思い出すこともなくなっていたと言う事だった。

薄情なのだ……、私は。冷淡なのだ……、昔から…。それは理性的などと云うのではない。人に煩らわせる事を嫌うだけでなく、関わり合いを怖れているに過ぎない。それは何より、忘れていたことを気付かされたときに思い出されたのが懐かしい子供の頃の記憶ではない事からも明らかだった。自分が実は冷淡で薄情な男でしかないということを示すには充分な事実といえる。思い出したくもない事実であり、日頃から逃げている事実とも言える。

子供の頃から密かには気づいていたことではあった。それを気づかぬふりをして過ごして来た自分の狡さにもまた改めて、気づかされた。それは、忘れてしまったことよりもずっと重い罪のようにさえ私には思えた。自分の意識の外に追い出そうとして、背を向けていた本当の自分を見せつけられたような一瞬だった。人当たりが良く見えるだけで、他人が思っているような、思っていたような自分ではないのだ。自分は決して不器用ではないし、ましてや誠実でもない。それなのにそう云う自分に対する過大な評価を拒否するわけでもなく謙虚面をしながら受け入れていたのだ。その自分の狡さを三十年を経た今此の時に思い知らされているのだった。気付きたくもなかった自分の冷淡さ、薄情さをみんなが嘲笑っているようにも思えた。

私の目の前で起ころうとしている友人たちの行動とは無関係の自分がいた。これから決定されるであろう、そして行われるであろう行動に参加する資格が自分にあるのかを問われないことを密かに願っていた。私に参加する資格があるのだろうか、自分のように薄情な人間に……。それがあるとすればその他大勢の中に自分を埋没させて参加することだけだろうと思っていた。

彼らの話し合いが定まり、発表されるのを私は遠くから眺めていた。ホテルの五階にある会場からは太平洋が見える。私の立っている所からは未だ陽のある空の下で海が輝いて見えた。その海を視界に容れながら、視界の右の隅には、今回の同窓会の司会の二人と事の発端の主宰者が見えた。

それは短い時間であったはずだけれど私には長い糾問裁判でも待っているような時間だった。有罪であることは確定していた。執行猶予がつくのか、つかないのかが重要な問題となっている被告人のようだなと思った。有罪であることは間違いないのだから情状を酌量してもらえるかどうかだけが問題になっているに過ぎない。私に寛恕すべき情状が有ると云えるのか…。その情状を捜すつもりにでもなっていたのか、その短い時間の中で私はアイツのことを思い出していた。アイツがいた頃のことを、アイツと私が共にいた頃のことを思い出していた。

いつも一緒に居たように思えた。学校に来るのは何時も私の方が早かった。教室の窓から遅刻しがちなアイツが走って来るのを見ているのが楽しかった。何を話すわけでもなく、ただ一緒にいる時間が掛け替えのない時間だだった。その掛け替えの無さをその時には気付く事はできなかったのだが…。尤もそれは私だけの不注意とは言えなかったが…。



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