小説哲学史(上)


ニューヨークの私の研究室には、哲学者の肖像画がかかっている。いずれも小さいが、あるものは本物の写真だし、あるものはよく教科書にあるのと同じ、後代の画家の手になる想像画である。この哲学者達の肖像を見ていると、幼い頃の写真を見ているような懐かしい郷愁に誘われる。

今からそう四十年近くも前のことだ。まだ三十代も前半の頃、私はある夢を見た。二月の私の誕生日に近い頃だった。古代の哲学者の夢だ。一人ではない。幾人も幾人も。主要な哲学者の全てに会った。

夢と言うにはあまりにリアルで、その現実感は、目が覚めた後の日常生活のリアリティーを圧倒して、その日は一日、夢にとらわれてまどろむような日常生活を送った。奇妙だと言うのは、次の晩また夢を見て、その夢の中の出来事が、前の晩の夢と連続していたことである。つまり、私は、同一の夢の世界を訪れたのである。

人はどのようにして、夢と現実を区別するのだろうか?現実世界は、ひとつの連続性を持ち、人は目が覚めた時、眠る以前に住んでいた世界と同一の世界に目覚めたという確認と確信の下に、一日を出発する。夢の世界は、不連続で、断片的であり、何よりも、夢で同一の場を訪れたという自覚が失われている。夢の中の自分が、同一の夢の場を訪れているという自覚と意識を持ってはいない。今日の夢と明日の夢に、一貫した連続性もない。

私が見たその夢は、そうした夢の定説をくつがえす、連続性と同一性をもった夢であった。夢は連続して五夜続いた。ひとつの長編小説でも読むように、ひとつの世界から次の世界にと、私はひとつの旅を続けた。西洋哲学史を区分する古代ギリシャの世界、中世キリスト教の世界、近代の世界、二十世紀以降の現代世界、更に東洋の思惟の世界と、その全ての思索の世界を、五夜の夢として、私は経験したのである。

あまりに奇妙な体験であり、口にした所で、興味半分に聞き流されるのが落ちである。しかし、私にとっては、聞き流されてもよいほど軽い体験ではなかったので、あえて口外しなかった。いつか夢というものの哲学的考察でもしてから発表しようかと思っていたのだが、時は待ってくれそうもない。いつ私自身に届けられるかわからないあの世からの招待状が届く前に、この夢のことを誰かに語っておかなければならない。そういう思いから、私の遺言として、その時、くっきりと夢で体験した哲学史の精神風景をここに記すことにした。


書籍の購入方法

本棚ページ

詳細ページ

トップページ