大衆化する愛国婦人会B‐1




1933(昭和8)年11月に発行された『愛国婦人会の栞』でも、「愛国婦人会に対しては、ややもすると世間に誤解が伝はって居ります。曰く、上流婦人や、有閑夫人のみの会合である。曰く、白襟、紋付を着なければ、出席が出来ない会である。……愛国婦人会は、階級と、職業と、年齢の如何を問はず、全国婦人を網羅せんとする会合です。大衆を目的とする会合です 」としている。

この愛国婦人会の上流嗜好を千葉陽一は、「愛婦(愛国婦人会)の体質」とし、体質改善の意図は、「満州事変における軍事援護活動を会務拡大の梃子として最大限に利用しながらも、愛婦に直接的に軍事援護団体というよりも、むしろ国家観念の強調による『思想国難』『経済国難』克服をねらいとする精神運動主体の婦人教化団体づくりを期待する色彩が強い」という 。

1931(昭和6)年10月27・28日、愛国婦人会本部の愛国夜間女学校講堂で全国主事会議を開かれ、会長本野久子・副会長水野万壽子をはじめ、役員及び事務総長小原新三や本部職員が列席して協議を重ね、種々の意見が答申された。この全国主事会の答申などを受けた形で、1931(昭和6)年12月17日に開催された本部理事会で、会務進展上の注意事項が承認された。ここではこれまでの愛国婦人会に寄せられた華美であるという批判に対する反省がなされ、特に服装に関して言及されている 。全国主事会議の答申に、この点に関する諮問がある。


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