数学学習における「理解」の構造




はしがき

科学技術、殊に革命的とも呼ばれるITの急速な進展に伴って、社会という大域的構造はもちろんのこと、それを構成する個々人の日常生活においても変革とも呼べるような構造的な変化が生じてきている。その変革の波は教育にも及び、当然のことながら数学教育もその例外ではない。決してその原因をそのことだけに帰するわけにはいかないが、諸々の環境の変化に伴って、学習者である児童・生徒の気質や学習に対する態度も様変わりした感がある。それは学校崩壊、学級崩壊、学力崩壊というような、ある種の流行語にもなったことからも窺がえるのである。また、さまざまなメディア(学習に関しては、学校、学習塾、予備校、受験雑誌、インターネットなど)が招いた情報過多時代の中で、その情報をややもすれば受動的に、しかも単に取捨選択をするだけに享受する傾向が高まり、能動的にじっくり時間をかけて考察するという従来の、というか本来の思考をする機会が以前に比べて子どもに不足している感がある。

さて、高校までの教育に絶大的な影響力を与える大学入試制度も、時代とともに検討され、コンピュータの性能向上という時代的背景のもとにマークシート式という形態が導入されて早20年が経過した。その結果、基本的には国公立大学に合格するには、マークシート式のセンター試験と各大学が独自に出題する記述式の個別試験という異なる2つの試験形態の関門を突破する必要がある。数学については、大学、学部、学科、専攻によって一切課さない、課すがマーク式のみ、記述式のみ、マーク式と記述式の両方を課すというパターンに分類される。

大学入試突破のためにだけに数学を教えたり、学んだりしているのではないにしろ、現実問題として、数学を学習することとは、耐え難きを耐え、合格通知を獲得するための苦行としか思えていないような生徒も少なからずいる。彼ら・彼女らにとって数学、数学学習とは一体何なのであろう。常に何のために学ぶのかという疑問がついてまわっていることであろう。「数理・論理的に思考する能力や態度を育成する」のがその目的であるといっても、その必要性を感じなければそれまでであろうし、さらに「人間としてよりよく生きるための一助になる」からであると説明しても全く説得力に欠けるであろう。数学なんて学習しても何の役にも立たないし、できなくても、わからなくても十分立派に生きて来られたという証言が数多くあり(しかし、今後の世の中ではその保障はないが)、それが数学や数学学習の不要論を肯定することさえある。

小説を読むことは好きで楽しいが、その好きで楽しいと思った小説でさえ、それがテストの中に出題され、制限時間の中で他人の指示する問いに答えなければならないとか、さらに点数評価されるとかになると途端に嫌いで不愉快になることが往々にしてあるが、数学についても同様なことが起こっていないであろうか。数学嫌いが多いと言われる中、せめてテストと切り離して、よくはできなくても、わからなくても好きで楽しいという感情ぐらいは生徒の心の中に生じさせたいものである。そのためには、やはりある程度は「できる」ことや「わかる」ことが必要になるであろうが、「わかる」ことが必ずしも充分でなくてもある程度まで「できる」ことは可能であるし、その中に楽しさや喜びが生まれることだってある。また、「できる」ことの中から、その後「わかる」ことにつながることもあるであろう。

今まで、ペーパーテストを使っての評価の中では、「できる」ことが重視されてきた。しかし、生徒を日頃から観察していると、「わかって」いないのに「できて」いる答案、あるいはその逆で「わかって」いるのに「できて」いない答案に出くわすことが多々ある。特にマーク式の場合、不備どころか致命的な欠陥があっても、それが見事に抹殺されて正解と認定されてしまうことさえある。確かに、マーク式は客観性や採点の簡便さを考慮すれば、その解答形式のもつ意義は十分認められるものの、その中で看過されている宿命的、致命的な欠陥をこのまま放置しておくわけにはいかない。つまり、結果さえ正しく求められていればそこまでに至るプロセスが紙上に数学・論理的に正しく展開できなくても、また数学的に見て正確な表現や表記ができなくても容認するというか、せざるを得ないという体質、たとえば、式の羅列や殴り書きであっても問題文の中にある、求めるべき空欄を埋められれば良しとせざるを得ないこと、場合によっては問題文の中に記載されている情報(答えの形など)から逆算して強引に埋めるべき数字を捻出しても良しとせざるを得ないことは数学教育的に見て大問題である。このような見解に対しては、二次試験(個別試験)で記述式の試験があるのでとか、マーク式試験の配点の比率が低くしてあるので実害は少ないというような反論があるが、問題なのは二次試験まであるのは主に理系であり、文系については数学が課せられていないとか、課せられていてもマーク式止まりが多いということなのである。文系の分野にも数学的な思考力や理解力が要求されている昨今だからこそ、数学的な発想を論理的に、しかも的確な数学的表現で記述できることを育成する教育的機会を失ってはならないはずである。入試に出題されないことは全くといっていいほど勉強しないのが当世の学生気質である。今や有名難関大学の文系学生でさえ「分数のできない大学生」と揶揄される末期的症状を呈している時代である。さらに追い打ちをかけるように、新教育課程では内容や時間数に大幅な削減があり、まさに国を挙げて「低学力時代」に突入しようとしているという危機感がある。

「好きこそ物の上手なれ」という諺にもあるように、できた! わかった! 面白かった! 役に立った! などの感動や喜びがあれば自発的に数学を勉強するだろうし、それらは結果的に好循環になるはずである。

本書は、この感動や喜びを強く同伴する「わかる(理解)」ということを中心に数学学習を考察するものである。


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