社会活動を行う愛国婦人会




このシリーズAは、愛国婦人会の目的が始めて大きく変えられ、活動の対象が軍遺家族や傷痍軍人とその家族から一般にまで広げられ、活動も社会的なものに広げられた1917(大正6)年から、満州事変の始まる前までを扱う。井上恵子の「愛国婦人会の施設における教育活動」では、「第一期は本部の充実並びに支部の結成と充実をはじめとして傷痍兵、廃兵、遺族の慰問、出征兵士の送迎や救護金の贈与、弔慰金の贈与等の軍事扶助活動が行われたが大正期に入りデモクラシー思想が浸透し出すとそれらの活動も低迷せざるを得なくな」り、「同会が軍事扶助活動の他に生業扶助ともいうべき一項を入れて感化救済事業を主なう」ようになったとする。この時には「施設の主たるものは……子供、婦人に関する施設を第一に上げている。こうして全国各地に各種相談所、女学校、産婆養成所、託児所等が設置されていった 」という。また、「大正六年に定款の改正を行った同会は……各施設を設置して弱者救済活動をくりひろげ 」たという。ただ、生業扶助という言葉は、軍事援護の一部として日露戦争期から始められた授産事業を指すものとして愛国婦人会の資料では使われている。また感化という語は、受刑者などの更生をさすことが多いが、愛国婦人会が更生事業を行った記録は見当たらない。とはいえ、愛国婦人会の活動対象や活動内容が変化したことは確かである。

この巻では、1916(大正6)年の定款改正によって愛国婦人会の性格はどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのかを中心にみていくことにしたい。定款の改正は、愛国婦人会内部からもたらされたものか、あるいは外部的要因によるものだったのか、また本当に大正デモクラシーの影響であったのか。この変化によって愛国婦人会の会勢はどのように変化したのか。創設から確立期にかけて愛国婦人会は、皇族・王族・華族などを総裁や名誉会員として、それらを会合に臨席させることでその権威付けを行い会勢を延ばしてきたという歴史があるが、これらの人々の役割は愛国婦人会の中で変わっていったのか。そしてこの時期に愛国婦人会が始めた社会事業の内容や特徴を明らかにしたい。


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