聖者の香水




悪人はいるのであろうか。悪人と思える決済は自分でした。自分が悪に濱ったら、それこそ決済である。悪の償いをしなければならない。無償の行為は、人間に未来を約束した。人間だけが幸せと生き残り、外の動物の見習いとなり、草花や草木といった木々の芽生えの中に拠り所を探す。新緑は芽生え、樹木は可憐にも咲かせたのだ。人間は今ある行いを正さなければいけない。増して、自然は立ち止まるに自然を味方した。人間だけが生き残る仕組みは、人間が考えた上でのことだ。決済は悪を味方とし、人間の寄る辺を探した。思春期にみる人間の行いは、自然と一体としたものだ。人間に反逆し、自然から奪おうとする。しかし、神は、人間の行いを見ている。信じるかは別として、自然から奪った人間の形跡は後を絶たない。都会では犯行が漲り、田舎では自然がよぎる。どこに暮らしが在ろう。人間の暮らしなど馬と一緒だ。馬屋から人間の明日を伺わせ、未来を約束する。権利としたもので、人間の未来は馬に餌をやった。喜んだ馬主は馬に跨った。誇らしい馬は、悪人を跨いでひとっ飛びである。このように、馬は悪人を登場させた。そのことは、馬の罪である。馬の罪で戦争しているようなものだ。馬は厩から生まれ、人間に懐いている。しかし、人間は馬に見習いを働く。しかし、実態は馬にある。このように、生きるとは親を選べないと同様である。親の庇護よりも、親としての愛情が問題にされる訳だ。罪は子が背負っている。親の良識といった愛情を掲げている。親の愛育に期待しているのである。子が親の愛育に期待するものは、親子の縁と同様である。親の愛情は奥が深く、気付きにくいが、しかし、実態は馬である。平和な馬は、厩からでも人間を見ている。人間の様子を伺うと国家の温もりがする。正しく国家とは冒険だ。それが正義と言いくるめられている。国家の冒涜は数知れない。今ある温もりも国家の罠だ。人間の罠に嵌り、群がる冒涜に心胆を賭ける。賭博、博打は冒涜心の現れだ。表現そこそこに雲隠れである。人間の正義は、戦争に於いてハッキリする。戦争は未来となろう。現実から目を反らす訳には行かない。厳しいようだが、人間の執り行いである。つまり、人間は意図的に使われる。意図を持たない人間は、風ですら恐怖の的だ。人間から意図を奪ったら台無しだろう。教養では叶わぬ人間の欲望も、意図を見れば判る。人間の縮図が何に使われているか。部品なのか、人間の欲望は果てしない。神の意図だろう。人間は神の差し金だ。縮図を持たない人間にとって大らかだ。まるで人間がなってない。しかし、国家の意図は冒険により許された。免赦されたのだ。しかし、冒涜は始まっている。聞こえないだけだ。仮に、人間が出来ていたとしても意思による。意思は作用し、人間の意識に上り詰める。仮に冒険が許されたとしても、人間の心を蝕むくらいだろう。人間の心は入れ替えが効く。だから、心を疎かにしては始まらない。始まらないとは、決着が付かないという事だ。つまり、認識の虜となったのだ。このような捕虜は見逃しがちだが、意図的に人間におびき寄せる。しかし、愚連だ。愚連からは意図はない。あるのは決定に従うだけだ。このような愚連の多くは川に棄てた。川には桃が流れていた。ただ、それだけだった。明日を晩飯にした。今日あるすべてが人間ではない。もしかしたら、明日は晴れるかも知れない。期待を桃に託した。しかし、桃は海を目指していた。人間の横撮りは、落ちた桃さえ争いが絶えない。いっそ、すべてを桃に託して、拾ってしまえば救ったことになる。落ちた林檎の木、その辺に栄えた果物、フルーツなど満ち溢れ、天国のさまよいとなる。果ては鬼が退治したと見せかけて、人間が食べるのである。このように人間とは未知で音痴だ。音痴な人間からは、容赦の無い団欒が、鬼を通して語られる。しかし、人だ。その欠片も片鱗も遺さず鬼は平らげたのだ。食べてしまった記憶も無くす程に果物に飢えていた。それがどうだ。片鱗から角が栄え、記憶から芽が出る。食べた記憶を思い出しても、鬼は人間との諍いを好むのだ。食事に纏わる不始末は数知れない。もしかしたら、明日かも知れない。人間の果物にみる欲望は、人間の鬼の心と一緒だ。鬼はいる。しかし、人間の心に住み着いた鬼は、記憶から蝕み、月蝕へと導くのだ。月日は人間をも蝕んだ。それが鬼の仕業だとすると、日蝕は人間に始まった。月日は人間に襲い掛かったのだ。軽んずべからずの人間にフルーツがいる。川は記憶を呼び覚まし、月日は冒険を愛した。人間だけによる行いから救われたのだ。鬼の不始末は人間の数だけいる。つまり、住み着いた鬼は、人間の記憶の中だ。


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