アステカ文明




中米の先スペイン文化は南米の先スペイン期文化と同じように、ヨーロッパや、東洋史の盛んな研究と比べて、あまり日本国内では研究の盛んな分野とはいいがたいものがある。とはいいつも30年前に比べると、日本に拠点を置く日本人研究者の数は飛躍的に増えており、海外で活躍する人もいる。こうした現状の中『なぞの文明』といった認識は改める時期にきている。確かに現在でも先スペイン文明及び、ラテンアメリカの研究自体日本では比較的マイナーではある。しかし、一次資料の翻訳という分野では、研究の盛んな米国よりはるかに進んでいる面もある。たとえばインカ研究の重要資料である、シオサ・デ・レオンの『インカ皇統記』は日本では30年前に近くに翻訳が出ているが、英語訳が出たのはつい3、4年ほど前なのである。征服直前の新世界の現状を知るのに有益なラス・カサスの『インディアス史』にいたっては邦訳が30年前に岩波書店から出ていながら、英語訳はいまだに出版されていない。

もちろん、英語圏の人がスペイン語文献を読むのは日本人ほど困難ではないということや、日本とは違い翻訳が必ずしも研究業績として関係しないという背景もある。しかし、日本におけるラテンアメリカ研究の環境がまったくないという言い訳をしてはならない一例であろう。そして研究の分野でも、日本の研究はどちらかというと南米ペルーのほうが重点を置かれてきたように思われるが、中米分野もいつまでも研究環境の未整備を言い訳にしてよい時代ではなくなってきていることも確かである。マヤ文明では近年2人の日本人考古学者が盛んに著作を米国で出すようになり、この状況下では、かえってなぞの文明の研究ということを宣伝材料にしていることで興味を抱かせようとしている面もあるかもしれない。

一方で研究が20世紀中盛んであった米国やドイツ(そしてフランス)では、かつて人々を魅了した謎といわれることのかなりには一定の研究成果が出てしまい、特にマヤ文化に対する研究は一昔前のようなロマンチックな動機で取り掛かる分野としては、少し敷居が高い分野になりつつある。アステカ文明などで博論を書くともなれば20年位前と比べてはるかに難しくなった。しかし、それでもまだまだ追求するのに十分な魅力を持つ課題は残されている分野でもある。

筆者が国内にいたときはその情報の集め難さから、ずいぶんひどい考えをもっていたので、一つ、日本国内でのアステカ文化に対する理解が広げられないかと考え出したのがこの本の始まりである。

もちろん国内においても特に一般書、もしくは学術一般書については、日本人学者の著書または外国人研究者の書いた本の日本語翻訳は増えてきている。そうした状況下、一般書を書くと言うことは、その対象とする読者を考えねばならない構成上の制限ゆえ、過去の物と大差のない物を書くことになりかねない。

今さら過去の労作に近年の所見を多少継ぎ足しただけの入門書をあらたに書くよりも、そういう書を読んだ人がもう一歩踏み出した理解をするのに役立つような、過去の著作とは違う視点から、メソアメリカ史の招待がかけないかという試みから本書は書かれた。著者はアステカ帝国の興亡を、メソアメリカ文明発展の一過程からそのスペイン支配期の実態も含めたものとして紹介するよう腐心したが、その結果一般書と専門書の中間の形をとることになった。尚数ある邦語文献では、仔細に解説される天文学、暦、そして神々の体系は努めて簡略化し、一方で簡略に述べられているだけで掴みにくいアステカの法制、薬学などの分野が充実されることを心がけた。

特に苦心したのはむしろ通史部分である。実際、一般の読者にもわかりやすいように簡潔な歴史を書こうとすると、過去の本を複写したかのような内容の文章になりがちである。いかに過去に出た書籍と違う構成が出来ないかと腐心しなければならない有様であった。

専門家の間ではともかく、一般の学生や社会人の方々の間には、アステカと言うと、いまだに謎の文明であるといった感覚をお持ちである方も少なくないかもしれない。実際彼らは車輪を知りながら実用化しなかった。銅器を知りながら、石器で作った道具を主流にしたなどの、我々からすれば「常識」の範疇に収まらない常識を彼らは持っていた。またそうでなくても、同一文献内に矛盾する記述が満ちている原住民の歴史文献から学術的な著作を書くことが難しい分野とされる方もいるかもしれない。

だが、われわれとは異質の文化でわかりにくいと言うイメージがある反面、東京大学教授狩野博士のようにアジアとの共通点がたくさんあることを指摘なさる方もある。

筆者が米国の某学会で研究発表をしたとき、当時の西洋人がアメリカ原住民が野蛮人であるか否かについて議論を戦わせていた時代、西洋人は東洋人から野蛮人と呼ばれていたと言う点に触れたのだが、ミネソタ大学のカール・ヘイセ教授から興味深い点だとコメントされた。そしてアステカ人から見れば、われわれも理解に苦しむ文化だと言われても不思議は無い。「常識」は常に「偶然の出来事」が既成事実化することから始まる。たとえば、この書では取り上げられなかったが、文明の高度化にしたがって文字触媒を放棄し、はるかに原始的(と我々の常識では思われる)絵文字に移行した文化もメキシコのオアハカ盆地にある。

この書では出来るだけ、彼らが何らわれわれと違いは無い民族であったことを強調したつもりである。


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