「あのとき」 by 高橋英夫
あのときは夕ぐれどきだったのです。
買物からの帰りしなだったのです。
わが家に向かう峠を下りかけたとき、
「これより小鹿野」の地名ならぬ
大きな鹿がいきなり
オレの車にとび込んで来たのです。
オレの車の破損は少しですんだのですがー
損害賠償をしたかったのですがー
予定外の出費でオレも痛かったが
鹿もからだが痛かったと思います。
オレには何の落度がないと思ったけれど
鹿もとんだ災難だったと思い
見積書だの請求書だのは
あきらめることにしたのです。
それより鹿のその後が
気がかりだったのです。
林の中では鹿を治療してくれる所は
なかったと思います。
おまえはいくどか横転したあと
闇の中、斜面をいっきにかけ上がりました。
オレは今度から気をつけろいなと
声をかけようとしていたのです。
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