東文彦全集・第二巻




 朝のうち、庭の樹(こ)蔭(かげ)に寝(ね)椅子(いす)を出して、そこで外気浴(がいきよく)をするのが、夏以来の私の習慣になっていた。そこにいると、淡い樹洩(こも)れ日(び)が私の手のうえに「おや」と目をとめさせるような明るい色の、美しい痣(あざ)を描いたり、ときどき、思いついたような枯葉が舞い落ちて来たりして、病人の私も、決(きま)ってふと風流(ふうりゅう)を愉(たの)しむような気持になるのだった。─けれども、私にはまだなにか物足らなかった。その折角(せっかく)の清々(すがすが)しい朝の時間を、ただとりとめもないような気分で過(すご)してしまうのが、なんだか惜(お)しい気がされて仕方がない。いや、そんな御体裁(ごていさい)のよいことよりも、私はそろそろ、その風流な時間の、世捨(よすて)びとめいた長閑(のどか)さに退屈(たいくつ)を感じはじめたのかも知れなかった。
 そんなことから、私はその時間に、庭の写生をすることを思いついた。画題なら、庭一めんどこをとってもお誂(あつら)え向きのように思われたし、また、画(え)を描くことは、私のように有閑(ひま)な病人の仕事として、最も似合(につか)わしいことだとも考えられたのだ。
 ところが、いざ仕事をはじめてみると、いろいろなことが私の妨(さまた)げとなった。たとえば、あまりにもしっくり身に合うように造られた寝椅子の波形の起伏(きふく)は、窮屈(きゅうくつ)で、筆を動かすたびに私の身体をコルセットのように締(し)めつけたし、そうでなくとも、寝たままの姿勢では、写すもののかたちが得て不自然に歪(ゆが)みやすかった。─だが、それだけならまだ良かった。なによりも、一ばん私の気になって仕方がなかったのは、寝椅子のすぐわきのところに、手持(てもち)無沙汰(ぶさた)そうに佇(たたず)んでいる私附きの看護婦─ふだん、私の呼んでいる云い方に従えば「坂野さん」の存在だった。彼女は、用もないし、自分でもそうしているのがちょっとも面白くなさそうなのに、どうしてか私のそばに附ききりなのだった。……
「あら……どこかと思ったら、あそこを書いていらっしゃるのね」
 先刻(さっき)、彼女は私の画と庭の景色とを見(み)較(くら)べて、いかにも唐突(とうとつ)にそんなことを言出(いいだ)したものだ。─私の画のなかには、そのとき既(すで)に、一目でそれと目じるしになるような黄色の小菊の一(ひ)と叢(むら)が、素人(しろうと)らしく色(いろ)鮮(あざや)かに描かれてあった。
「いま気付いたの?」
「ええ、さっきから、あそこかも知れないと思ってはいたんですけど……」
 私はそう云う坂野さんの勘(かん)の悪さを、意地悪く嗤(わら)ったりする気にはなれなかった。けれども、そんな対話を交(かわ)したあともまだ、私の筆づかいがどうにもうまく呑(の)み込めないと云う様子で、手の動きを一々(いちいち)不審(ふしん)そうに目で追われるのでは、やはり、私には気になって仕様がないのだった。


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