東文彦全集・第一巻



 辺り一面ぼんやりとして、夜昼を分(わか)たない。私の立っている右手の壁や左手の柱には、日が照っていると云えばそうも云える。丁度(ちょうど)、夕立(ゆうだち)の押し寄せる一(ちょ)寸(っと)前、空一面墨(すみ)を流していながら、何処(どこ)からか日光が漏(も)れて、すべてが凄味(すごみ)を帯(お)びて光っているときに似ていた。実際、富士山や大室(おおむろ)山(やま*)を見えない程に押しつつんだ闇(やみ)は、雷雲だったかも知れない。昨年の夏、雹(ひょう)の降ろうと云う日の昼方、丁度その方向に見た恐ろしい密雲を思い出した。雲の底は、夕焼とも又違った薄気味悪い色彩を帯びて、それが上に行くに随(したが)って、灰色から真黒になっていた。然(しか)し、今のはもっと暗かった。ただ西の空だけ妙に明るくて、展望台のある山の鼻が黒く、はっきり見えていた。私は何かを望んで、その方を見ていた。と、突然、その山の鼻の向うから、ふわりと赤いものが飛び出した。蝶が舞うように、然し、驚く程速く、それは近付いて来た。よーく見ると、緋(ひ)の色をした不思議な扇(おうぎ)である。見ている間に、近づいたと思うと、伸(のば)してもいない私の手にすぽりと乗った。私は急に嬉しくなった。母に見せたりして喜んでいると、小さな汚い女の子が左手の入り口からやって来た。それは、時々卵を運んで呉(く)れる村の子に似ていた。「その扇は私のです」とその子が云った。山の向うから投げたら、ここ迄(まで)来たのだとも云った。私は不思議に疑わなかった。そして身なりに不相応な扇を返してやった。その子は喜んで駈(か)けて行った。後に残った私は呆然(ぼうぜん)としながら私と扇とその子と一所に落ち合ったのは奇妙な偶然であると考えていた。そして後は、ぼんやりとして、ただ入り乱れた普通の夢に落ちて行った。起きてからも、それから幾月か経(た)った今迄も、その夢は不思議に強く印象に残った。靴を忘れたり、遅刻をしたり、走り廻ったり起きている時より忙しい私の夢の中で、一段と夢らしい夢だったせいかも知れない。


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