立ち読み


アメリカの会社

「おお、ハシよく来たね。今回はいつまで居るんかね。ヤマも一緒か。さあ、私のオフィスに来なさい」
 トム・カーターは、小柄の眼鏡を掛けた気さくな男であった。Yシャツ姿で現れ、一応ネクタイは締めていた。歳の頃三十代後半に見えたが、溌剌とした若さが感じられた。ブリッツベルグ・アメリカにおける開発の総責任者であったので、差し迫った新機能の開発要求は、最終的にはこの男のところに持って行った。榊原は直接ブリッツベルグには関係のない人間であったが、トムに紹介された。
 この三、四年の間に、ブリッツベルグも大きな変貌を遂げていた。元々は、インプレックスと言う会社であったものが、大きな業績を上げた時点でドイツ資本のブリッツベルグ社に売り渡されるという経緯があった。インプレックスと言う会社は、四、五名の技術者により七年ほど前に設立された会社であった。一台のコンピュータで三十二台までのデータ入力用端末を一括してサポートできる画期的なシステムを開発して、会社を作り上げたのであった。トム・カーターはその草創期の開発技術者の一人であった。二年前に会社そのものがブリッツベルグ社に売り飛ばされるに際して、開発設計に携わった創設者たちの大部分が去って行った。社長のトーマス・ジョンソン、副社長のステファン・バーバー、マイク・マコミック等が、去って行ったのであった。しかしトム・カーターはまだ残っていた。トムがまだ残っている限り、インプレックス・システム本来の開発の方は、まだまだ継続されると言う安心感を、日本の人たちにも与えていた。
 鷹島エレクトロニクスがブリッツベルグ社の前身のインプレックス社を発見するに際しては、面白い経緯があった。鷹島エレクトロニクス社が取り扱っている電子機器システムの中の大きな柱の一つが、半導体製造を支援するいろいろな製造過程に対応したデザインシステムであり、このバーリントンの中にも、既に数年に及ぶ取引関係を持つハイテク会社があった。それが、ブリッツベルグ社と玄関と玄関を道路一つ隔てたところに有ったグラフコン社と言う半導体向けのグラフィック設計システムを製造している会社であった。鷹島エレクトロニクスの村瀬専務は、半導体の業界では名を知られた人で、この分野には通じており、アメリカはボストンに立ち寄るときは、このグラフコン社へも必ず訪問していた。たまたま、四、五年前、村瀬専務はグラフコン社を訪問していて、交渉もうまく行き、打ち合わせの方が予定されていた時間より遥かに早く終わってしまったことがあった。玄関を出て、はてこれからどうするかと考えていると、直ぐ目の前に、何を製造しているのか得体の知れぬインプレックス社という会社が有った。前々からインプレックス社の存在には気付いていたけれども、関係ない会社として素通りしていた。それが、今日は時間ができたということで、アポイントも取らず、好奇心の赴くまま玄関を叩いてみたのであった。村瀬は、ざっくばらんに来意を伝え、毎度目の前のグラフコン社に来ているのだけど、前々からお宅がどんな商品を製造しているのか、興味を持っていた、今日は時間が出来たので、商品説明をして欲しい、と申し入れをしたのであった。インプレックス社の方も、日本からの珍しい客ということで、拒む理由は何も無かった。
 当時社長のトーマス・ジョンソンまでが同席し、システムの説明からデモンストレーションまで行なわれた。この時、社長のみならず、草創期の主要なメンバーが、皆一度は顔を出して、インプレックス・システムに対する自らの思いを村瀬に語ったのであった。そこには、非常に自由な雰囲気があり、技術に掛ける思い入れが特別であり、そういった技術者をまとめていく社長の人柄も、人格者のような品位に満ちていた。インプレックス・システムという商品が、半導体分野とは全く違う事務系のシステムであり、日本での市場性がどうなのかといったことには、村瀬は全く疎かった。しかし、顔を見せた人々が皆、エネルギーに溢れ、会社全体の雰囲気が明るく、将来性がありそうだということは、村瀬の独特の勘で感じ取っていた。トーマス・ジョンソンとも話が合い、一時間後には、デモ機を日本に送り込む仮契約まで結んでしまっていた。村瀬は、その日のうちに東京と連絡を取り、先ずは、技術的な評価と習得のため、電話一本で、ビジネス・システムのソフトウエア開発を経験してきた端田を担当SEとしてアサインしてしまった。それが、鷹島エレクトロニクスがインプレックス・システムを取り扱うようになった切っ掛けであった。誰も予想していなかった一瞬の出来事に等しかった。

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