太陽の末裔




 神話と伝説が統治していた太古の世界、ヒマラヤ山脈の南にシャカ族の築いた王国があった。国名をカピラと言う。黄金色の麦畑と緑色の水田が広がる、長閑で美しい国であった。辺境の地を開墾して建てられた、ごく小さな民族国家ではあったが、自然に恵まれてよく栄えていた。カピラ国周辺には未開拓の森が広がり、散在する青く澄んだ湖と森全体に漂う白く繊細な霧が、厳粛・神秘・清浄という名の三要素を織り交ぜた、古めかしくも奥ゆかしい、幽玄極まる雰囲気を醸していた。大地に萌え出でたばかりの若葉に付着した夜露の、朝日を受けて煌めく中にも、神々の厳かな息吹きが感じられた。

 カピラ国の首都は城塞都市カピラヴァスツである。大河ガンジスのもたらす肥沃な大地の上に堅固な城壁を築き、東西南北に四つの巨大な門を置いていた。青天に聳(そび)えるヒマラヤの山々がもたらす清らかな雪融け水は、都全体に蜘蛛の巣の如く張り巡らされた精緻な水路に流れ込んで隅々にまで行き渡り、あるときは民の喉を潤す冷たい飲み水となり、またあるときは信仰厚い人々の身と心を浄める聖水となった。ヒマラヤ山脈という無尽蔵の大水源を擁しているため、カピラ国が建国されて以来、シャカ族の民は未だかつて渇水を経験したことがなかった。雨一滴降らず、大地を尽く枯渇させる凄烈な乾季の最中にあっても、生活用水は脈々と尽きることなく街中にもたらされた。

 水路を経たヒマラヤの清水は、同時にまた貴重な農業用水となった。カピラ国にあっては取り分け稲作が盛んであった。王族や神官といった特権階級ばかりでなく、商いや匠に携わる一般市民にも白米が出回っていた。稀少かつ高価な食物である白米の流通に関して、カピラ国内よりも恵まれた環境は周囲の国々に見られず、そのため隣国の民からは『富める国カピラ』として嫉妬と羨望の眼差しを向けられていた。

 カピラヴァスツの中心には、壮麗な白亜の宮殿が立っていた。名君の誉れ高いシュッドダナ王の住まいである。都全体を一望できる小高い丘の頂にあって遥か頭上の太陽を仰ぎ、神秘めいた紺碧の天空と鮮やかな対照を呈する白い宮殿は、神々しい強さと瑞々しい光に満ち溢れ、厳かな静けさが漂い、民衆から『光の宮殿』として称えられていた。それは単に王の居城であるばかりか、長年に渡る近隣諸国との鬩(せめ)ぎ合いの中、外交手腕に長けたシュッドダナ王を先頭に平和で豊かなカピラ国を築き上げた、シャカ族全体の誇りと栄誉の象徴でもあった。

 宮殿の正門には小さな物見台があり、厳格・慎み・寛容・忍耐という目に見えぬ四種の糸を丹念に織り込んで作られた厚手の衣を、冷気が襲う雨季でもないのに深々と身に纏った、白髪の人物が一人佇んでいた。繁栄を極めつつも、稲田の青色が涼しげなカピラヴァスツの街並みを身動ぎもせず凝視しながら、焦りと不安と苛立ちを込めた固い拳を手擦りに叩き付けている。それも無意識の内に。……灰色がかった頭髪と顎鬚を昼下がりの風に靡かせているその人物は、すでに初老の域に達していた。すなわち、カピラ国王シュッドダナであった。かつて山河・国境を越えて世界の隅々にまで彼の名を馳せしめた英哲の才や端整な顔貌は、たとえば鋭い冴えの光を未だに宿している褐色の瞳や柔和で慈愛に満ちた口元、あるいは思索中に見せる鷹揚な仕草などにその名残を窺うことができた。時折、青き穹窿の高みから獲物を狙う黒鷲の如き眼差しを地平線に見据え、そして溜息を吐いた。

 慈しみ深く、信頼と尊敬の念をもって仰ぐに相応しい、聡明かつ実直な国王……これが、善良なカピラ国民の抱くシュッドダナ王の姿である。確かに間違ってはいない。彼は慈愛に満ち、信義を重んじる賢い王である。けれども、それはカピラヴァスツの市井にあって諸々の民を労う為政者という一面に過ぎなかった。事実、彼は一度玉座に着けば、大臣・武官・神官の前に厳然たる神の如き威容を示す孤高の指導者となり、一度戦場に赴けば、恐れを知らぬ勇猛果敢な軍隊にあって獅子の如き統率者となった。大小様々な国々が群雄割拠する時勢にあって、シュッドダナ王は強かで油断のならぬ外交家であり、同時に壮大な策を抱く戦略家でもあった。その仁智に長けたシュッドダナ王が今、カピラヴァスツの遠方まで見渡せる物見台に立ち、焦りと不安と苛立ちを拳に込めているのには理由(わけ)があった。彼はある重大な知らせが到着するのを今や遅しと待っていたのである。……


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