蜉蝣の兵隊(上)




陸前高田市の小友町に展開する広田湾、その少し奥まった高台に「華蔵寺(けぞうじ)」がある。境内には古(いにしえ)よりの津波による犠牲者を弔う石碑が居並び、ほぼ中央に、遥か南方を見詰めて観音像が佇んでいる。それは太平洋戦争末期に、南冥ニューギニアで壊滅した暁2948(第三揚陸隊)の戦死者を悼み、世界平和を願って、生還者の鳥羽義行氏が建立したものである。

日本軍があの戦争に敗れた主な原因は、作戦参謀等が余りにも独善的であった事と、戦争の血脈である兵站(へいたん)を軽視したためであった。日本は日清、日露の戦争で勝利し、昭和に入ると軍国化がエスカレートし始めた。そして、軍部は政府を国防に関与させまいとして軍独自性の慣行を作り上げたのであった。

昭和二十六年(1927)に端を発した世界大恐慌で失業者が巷に溢れ出すと、政府は満州(中国東北部)へ入植する外に道が無いと、そこへ開拓団を積極的に送り込んだ。陸軍は直ぐこれに追随し、同胞を保護するという目的で関東軍(中国派遣軍)を増派した。すると、高邁な海軍までが、これに対抗して南進策を唱え出したのである。この時、陸海軍は軍事予算の獲得競争に走り、国民の窮状をよそに、年間予算の七割も消化する大官僚組織に膨れ上がっていた。彼等は意思の疎通を欠き、貧乏国日本が、さも大国であるかのように錯覚し、列強を敵に回して最悪の道を歩んだのである。昭和十六年(1941)十二月八日、遂にハワイ(真珠湾)で戦端を切った日本軍は、昭和十三年(1938)発効の作戦用務令で言う初動撃破をモットーに、捕虜を禁句とする人権無視の戦いを始めたのであった。

開戦一年後の昭和十七年(1941)、こうした暗黒の時代を背景に、九州(宮崎・大分)、山陽(兵庫・岡山)の若者約一千二百人が、陸軍の「暁」船舶工兵・第三揚陸隊として正規編成された。これが、そもそもの第三揚陸隊(2948)発祥である。しかし、戦局に陰りが見え出すと、今度は、岩手県から壮丁(そうてい)の男子が補充召集されて行った。

戦争が終わって、筆者が物心付いた頃、「父達はニューギニアで餓死したらしい」と言うような嫌な噂が流れていた。まるで神隠しに遭ったみたいに父達の行方は露と知れず、遣る瀬無く悔しい思いは、暫くの間私の心を支配し続けた。ましてや時の流れは残酷で、否が応でも、この真相は闇から闇へと葬り去られる運命であった。だが、戦後半世紀余り経って、生還者の証言や資料を読み解くうちに、父達の行動が少しずつ分かってきたのである。調べによれば、彼等は昭和十八年(1943)二月のガダルカナル島撤退を皮切りに、ニューギニアのラエ上陸作戦などに動員されている事が判明した。彼等は昭和十八年(1943)の後半から、部隊の損耗をきたしながらも、「猛」第十八軍の兵站を担って、ニューギニアの北岸伝いに、「ラエ・ウエワク・アイタペ・ホーランジャ」へと後退、そして、昭和十九年(1942)四月二十二日の早朝、遂にアイタペとホーランジャに米軍の上陸を許してしまった。圧倒的な戦力を擁する米上陸軍を前に、日本軍は絶望的な抵抗を強いられ、応戦もかなわず、山中に避難して西方ゲニム(飛行場方面)へ後退した。だが、ゲニムに追い詰められたホーランジャ部隊はサルミへの全面撤退を余儀なくされ、各部隊は十梯団に分かれて再び後退を始めたのである。第三揚陸隊は第七梯団で出発した。梯団はサルミで健在な第三十六師団の支援を期待したのである。サルミまでは、道なき道を徒歩で四〇〇キロ(東京〜宮城・古川間)もあり、しかも、道中一〇〇以上の河川を越えねばならなかった。そして、約一ヶ月半かけ、サルミまであと一歩というトル河に差し掛かった時、兵団は米艦載機の奇襲を受けた。だがこの時、第三十六師団からの援護は無く、河の左岸まで渡り切った兵士でも、第三十六師団の作戦地域に入る事を固く禁じられ、その代わりに、そこを迂回して更に西方のシハラへ向かうよう指示された。だが、そこまで行くのに軍用道の使用は許されなかった。そのため、第三揚陸隊はそこシハラで一〇名の衰弱死者を出した。結局、ホーランジャ部隊一万四千六百名中、サルミまで持ち堪えた兵士は五〇〇名ほどで、無事、祖国へ帰還出来たのは、その内の一四三名であった。尚、捕虜の身から復員した兵士は六一一名である。また、第三揚陸隊の場合は、無事名古屋港に上陸を果たしたのは、投入兵力二千四百三十五名中の八名で、彼等が故郷に帰参した後、更に四名の衰弱死者を出すという惨憺たるものであった。鉄砲を一度も撃たず、石臼で挽かれるように消滅した部隊は稀で、耐え難い事に、この裏には口減らしと思しき驚愕の実態が隠されていたのである。

本書は人知れず儚く消えた「暁」船舶工兵の記録である。これを綴るに当たっては、写経の思いで、戦死者一人ひとりの氏名(敬省略)を記入するよう心掛けた。尚、戦没地名は日本政府の広報に準拠し、米軍返還資料のカタカナ使いは現代ひらがな使いに書き改めた。


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