「超越」と「絶対的遅れ」




動くものをとらえようとするとき、時間を無化させて、無時間化して、記述せざるをえない。「うごき」のままでは不可能である。

ある早朝、車を運転していて、あまりの朝焼けの美しさに感動した。大きな太陽にカーキ色の空。美しさに見とれる。室内には、買ったばかりのCD。富田勲のシルクロードの音楽。なんともいえぬ高揚感。言葉には表わしえない、この胸の高まり。

ふと、美しさに引かれている「私」に目が向く。感動しているこの「私」とは、何者なのか。この「私」あるいは、「自己」について考えようとすればするほど、アリ地獄にはまっていく。

感動している「自己」とは何か。そういう風に考えている「私」とは何か。と考えている「私」とは何か。・・・。無限に問いはつづいていく。留まることは、真理を探求することの放棄を意味する。考え続けなければ、「私」とは何者か、という疑問への追及は挫折することになる。

実際には、この「繰り返し」、「反復」をしばしば経験することによって、この問を問うことの難しさを知り、妥協の産物として、あたかもこの「自己」の存在を自明視して、次のステップへ進む。言い換えれば、この「繰り返し」、「反復」、この「リズム」こそ、「自己」の「自己」たる本質であるかのように考えてしまう。

「自己」の本質が、当の対象から導き出されないで、「繰り返し」「反復」「リズム」といった、「自己」をめぐる動きの中から出てくることになる。

この「自己」について、考えていくことが、本論の目的である。

ところで、この「自己」について考えていく場合、二つの方法があるように思われる。ひとつは、今述べたように、日常の我々の意識の中に現れてくる自己について徹底的に考えることである。ひとつは、一歩はなれて、言説そのものの構造を考えることである。つまり、「自己」について考えるということは、「〜について」考えることであり、「自己」に限らずすべての対象についての考えの「枠組み」、あるいは「限界」について考察する方法である。その際、言説に潜む語る主体の対象からの超越と、知の対象からの絶対的遅れについて特に考察した。前者を「内省をめぐって」という項目で論じ、後者を、「言語の構造を中心にして」という項目で論じる。別々の道から考察された「自己」は、やがて統一した「自己」像を得る。その統一した自己像によって、人類の歴史を振り返り、来るべきよりよき社会を展望したい。そのことを、「社会を中心として」という項目で論じる。



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