法規範探究の理論

‐渡邊式探究法‐




 私は、ずっと法律の基本体系について考えてきた。法律は規範を記載した物だが、無秩序に出来ていない。しかし、いろいろな法律を概観しても、それぞれまったくばらばらに別々の秩序で出来ているように見える。しかし、全部の法律を一貫する秩序付けが出来るはずだと考えてきた。
 ところで、法律の王様は民法である。民法を理解できれば法律を理解できたと言えるし、他方、民法が理解できなければ法律は分からない。しかし、民法の理解ほど困難を極める物はない。専門家の世界でも、民法の全体系を紡ぐ糸は発見されていないのである。皆、何となく各制度をつなぎ合わせて理解している程度である。私は、民法を深く研究することで全法律に一貫して流れる秩序を発見できると考えた。
 民法にこれまで発見されている理解の指針は、物権と債権、及び意思に基づく制度と意思に基づかない制度、の区別である。しかし、これだけではすっきりしない、と皆考えている。私はそれに対して、それらを民法の横糸と考えれば、一方の縦糸として、規範実現の制度、規範復帰の制度、及び、規範変更の制度、の区別をすれば、すっきりと理解できることに気がついた。これが、今まで気がつかれていない、民法の縦糸である、と考える。
 全法律は規範である。その規範の生成、維持、変更、消滅を研究することが、法律全体を貫徹する秩序を説明できることに気がついたのである。
 これが成功しているかどうかは分からない。しかし、歴史が私の考えの正しさを証明していくもの、と信じている。
 他方、私は解釈についても悩んできた。一方では、機械のように、法律は解釈者の恣意を排除するために、入口から原料を入れれば、出口から同じ結論が導かれるべきだという考えから、機械的な解釈を提唱する考えがある。しかし、私は、学者と実務家それぞれの経験を積んで、一応の法律家と言える経歴を持つことが出来たが、その経歴から分かったことは、解釈とは、解釈者が自分の全人格をぶつけて、事案ごとに個別に結論を見つけ出す実践的な作業以外にはあり得ない、と言うことである。一応の指針として法律は存在する。そして一応の存在であり続けるのである。実際、物事は千変万化しているのだから、その全部に対して最も適切な解決方法が短い条文一つに機械的に閉じこめられている、などと言うことは考えられないことである。各場合全部について最も妥当な結論は各場合の数だけ有るのである。
 しかし、それならば、法文に記載されている一応の基準と、その全部の各解決とを結びつける物は何か。それが問題である。私は、それこそが、各法律を成り立たせている法の趣旨即ち法の理想と各場合の結論とを結びつける、自然法則と同じ論理である、と思う。その論理を構築する極めて人間くさい、実践的作業が解釈なのである。
 人間を最も納得させるのは、数学の論理である。誰も異論を挟めない結論である。それは、数学が自然の法則を引き写した因果律で出来ているからである。同じ因果律が人間全員の意識に引き写されている。それが、遵法精神を生み出す「納得」と言うことの源泉であると考える。
 解釈とはその論理を見つけ出す作業である。当然解釈者により別々であり、また、その出来に巧拙がある。そこには解釈者の腕の見せ所の余地があるのである。
 前記の法律全体を貫く秩序と、後記の解釈の実体としての論理構成との間には、論理構成を法律に根拠を持たせるときの制約として前記の秩序が箱のような役割を果たす、ということでつながりをつけることが出来る。なお、法の理想は、歴史的に各法律ごとにある、制定の存在理由から既定の物として与えられる物である。解釈は、前記秩序の中に自分の論理構成を当てはめる作業である。することが法律の解釈であるから、構築した論理が法律に根拠を有しなければならないのは当然である。各法文の規範は、前記の規範の体系で出来ている。規範と体系は密接不可分である。適用規範は、法の理想から前記の秩序に導かれて各法文に具体化されている。従って、前記規範の体系は、各法文の具体的規範の実質的内容となることによって、各法文によって逆に各規範を束ねる中心的規範としての正当性を持つに至っているのである。他方、解釈で見つけ出す論理は自然法則による物である。出所が違うのである。当然その論理が、前記の体系の中に収まり、その許容範囲内で展開できるとは限らない。前記の体系の中に自分の論理を収めることが、解釈で最も苦労する中心的な作業である。
 解釈とは、自分の論理を各法の秩序の中に収めるために、苦労して何度も論理構成を再構築する試行錯誤の産物なのである。
 私は、実践的な法律の解釈作業が好きである。結論について自分で最も巧みな論理を見つけ出す創造的な作業だからである。私の好きな、未知の分野に分け入って勇敢に突き進む進取の精神、道無きところに最も巧みに自分の道を作り出す創造的な工夫に富んでいるからである。私は、積極的な進取の精神と創造的な工夫のための努力が幼少の頃から好きなのである。また、思慮を巡らすことも好きである。他方、私は、自分自身をさらなる困難な解釈事例によって鍛えることにより、困難の打開を最後までやり通す力を養うこと、に強い魅力を感じる。その上、私は、解釈に関して、より困難なまたはより良い解釈に挑み自分をさらに困難な状況で自分の限界まで追い込むことで、創造的な思考を生み出し自分の創造性をより磨くこと、にも強く引かれる。それらによって自分自身をさらに進歩させることが出来るからである。私は、これらによって、自然に、重要で本質的なポイントに思考の焦点を絞った上で客観的・論理的に考えると本質の単純な特徴に気づくに至る、という発想方法に対する独自の工夫の仕方を会得することが出来た。
 私は、昭和33年1月1日に岐阜市で生まれた。私は幼少の頃から郷里の長良川で水泳に親しみ、それ以来ずっと競技水泳を続けてきたが、創意工夫に挑む努力の必要性と最終目的達成の喜びは水泳に通じるものがある。どの道でもその実質はまったく同じである。私は幼少の頃から何事でも真剣にするのが好きだった。また、何より独創性が好きだった。幼少時から「徹底追求」が信条で、目標を達成するまで途中で決して諦めないのが取り柄だった。私は、何でも最後まで決して諦めずに努力すれば成功はそれに付いて来る、という信念を幼少の頃から持っているのである。
 私はこの本で現実に対する私の渡邊式探究法を示したつもりである。私は、この本を通じて、法律の世界に立ち入る一つの明かりを示すことが出来ているならば、この本の目的は達成された、と考えている。


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