戦時下愛国婦人会の軍事後援活動(1)

(シリーズ 愛国婦人会C−3)




1931(昭和6)年満州事変が起こり、愛国婦人会は自身の活性化のため、政府の提案する自力更生運動や農村救済運動を支える婦人報国運動などを活動に盛り込み、地方支部の下に分会や分区・班を置き、大衆化に乗り出した。そして1932(昭和7)年6月11日には、定款の目的が「本会は戦死並びに準戦死者の遺族及び廃兵を救護するを目的とす。前項主たる目的の外地方の状況に依り必要なるほかの社会事業を為す事を得」 と改正された。1933(昭和8)年5月30日、台湾支部を台湾地方本部とし、満州地方本部を新設したため定款が改正された。

1937(昭和12)年の盧溝橋事件から日中戦争が拡大するなか、1938(昭和13)年5月6日に定款の目的が改正された。そこでは「本会は軍事後援を為すを目的とす。前項の外本会は婦人報国の実を挙ぐるに必要なる事項を行ふことを得」 となる。ここに至って、愛国婦人会は自身を軍事後援を行う団体と公表した。また愛国婦人会の活動の対象は、軍遺家族や傷病兵とその家族であったが、この改正以後、出征兵やその家族なども正式に対象とされることになった。

支那事変以降、愛国婦人会は実際にはどのような活動をしていたのだろうか。活動の名称や分類方法は年を追って変化しているが、1939(昭和14)年末に各支部が本部に提出した事業報告に従って分類すると愛国婦人会の活動は、大きく軍事後援・一般事業・各種運動の3つに分けられる。この巻では、軍事後援のうちいくつかの活動をみていくが、まず軍事後援活動の概要を『愛国婦人会40年史』からみてみよう。

北海道支部軍事援護事業の概略は、次のようである。軍人家族・遺族に対しては、応召や出征の際、金品・門標を贈って祝意を表す。歓送迎、1村援助などのほか、簡易生命保険加入や掛け金出費、副業奨励、授産場(県内6ヵ所設置)、助産や産具の配給、初着と牛乳配給、子弟教養費補助、医療援助、季節保育所開設、労力奉仕、慰安会などである。戦線に対しては、慰問袋の発送、慰問文一斉発送、家族写真発送などが行われている。傷痍軍人に対しては病院慰問、送迎慰藉(林檎贈呈)、洗濯奉仕、傷痍軍人保養所経営、受傷患者面会旅費補助、家族寮の建設、配偶者斡旋などの活動がある。

埼玉県支部の軍事援護事業の概略を述べれば、扶助として法外扶助には比較的多く出費し、事変勃発以来70,000円余りに達し、一時扶助は約25,000円の出費となっている。このほか軍人家族で高齢者の冬季衣服の贈呈、軍人家族の家の衛生改善費補助、職業斡旋、軍人家族の傷痍軍人面会旅費補助などを行っている。弔意として、弔意料・弔問・供物料及び弔詞奉呈、額縁や写真贈呈、このほかには戦傷病者見舞金贈呈(約18,000円)、病院慰問、留守宅慰問・療養軍人菓子料贈呈、戦没遺族慰問、遺族・家族慰安会、祈願祭や慰霊祭の執行などがある。犒軍や献納としては、慰問品発送、通過軍隊接待(約35,000円)、軍人送迎、愛国寮献納(約7,100円)、忠霊塔顕彰会(3,500円)などがある。軍人やその妻子兄弟に対する施設としては、傷痍軍人結婚相談所開設、産具贈呈(約4,500円)、子女救済、教養費補助、小学校児童給食費補助、新入学児童に学用品贈呈、季節保育所補助などがある。皇后が出動兵の留守宅に対して手許金を下賜し、県よりその全額が愛国婦人会埼玉県支部に交付されたので、これで肌着を作り各家庭に伝達したこともある。


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