備前池田家・弓術史譚




池田光政をめぐる弓について述べてみたい。彼は名君として名の高い備前岡山藩三十一万五千石の大名である。

大坂夏の陣の翌年の天和二年(一六一六)父の姫路城主池田利隆の死で池田家を継いだのが、八歳であった。あまりにも幼少であったことから、因州(鳥取)に転封となり、さらに、寛永九年(一六三二)池田忠雄の死去に伴い、岡山に転封となった。以後幕末まで、この家系が岡山藩主を勤めた。

つまり、岡山藩にとっては光政公は藩祖であり、徳川家における神君家康にも匹敵する存在であった。光政公は死後のおくり名を「芳烈公」と言い、古文書では「烈公」と書かれていることが多い。なお、江戸初期の三名君と言われたのが、会津の仁科正之・水戸の徳川光圀・備前の池田光政である。

世に「殿様芸」と言う言葉もあるので、どうせ言うほどのものでもあるまいと思われるであろうが、この光政公は大変な弓の達人であった。これを物語る有名な逸話がある。ある時、光政と寵臣山川重郎左衛門とが百射の賭け弓をした。山川が九十六中、光政が九十五中で山川の勝ちで、山川は光政から光政所用の弓を頂いた。つぎに百射したところ光政が九十六中、山川が九十五中で光政の勝ちとなり、何か出せと言われ山川が先にもらった弓を出し、他に出す物がないと云ったので、光政からその弓を返し与えられ、この光政公所用の弓は、山川家の家宝となったという。

徳山文之介師の伝では、弓組頭宅での百射会でも九十六中以上でなければ「能中」と言わず、藩の表彰の対象にもならなかったと言われている。また、光政は病気のとき巻藁を病室の近くに置いて、その弦音を聞いて慰みとしたとあり、弓好きも相当なものである。

ところで、山川重郎左衛門がこのとき賭けで光政からもらい、家宝としたという弓はどうなったのであろうか? 残念ながら焼失のようである。『温故秘録』によると、彼の四代後の山川市内(のち重郎左衛門と変名)の八番町の長屋より火事を出し屋敷を全焼し、富田町の町家まで類焼した記録を見つけた。 明和四年(一七六七)十月十三日のことである。

『諸家之伝』の「山川重郎左衛門某伝」の書始に「子孫は先年の類焼の時、伝来候ものも多く失い、 一字の手跡もこれ無きよし、残念至極せり」とあるのも、この火事のことであろう。又、次男の継いだ金左衛門の家も冨田町の町家から出た大火の際類焼している。こちらは、寛政二年(一七九〇)二月二十四日のことである。

さて、光政公に弓を教えたのは誰であろうか? これについては、『池田家履歴略記』の「賞吉田多兵衛射術」が参考になろう。これによれば、光政の弓の師は吉田五兵衛と吉田多兵衛の親子である。しかし、この文章は、吉田親子の事跡をごちゃまぜにしたところがあり、少し解説が必要のようである。

そこで、親の吉田五兵衛と、子の吉田多兵衛に分けてみよう。

吉田五兵衛定勝(彦左衛門とも、隠居して清元)
日置流宗家吉田源八郎重氏(一水軒印西と号す)の弟である。子の多兵衛を兄の印西に預け、名束大内蔵に仕える。関ヶ原で敗軍の後、池田輝政に召し出され、新蔵(池田利隆公の幼名)に付けられる。輝政・利隆・光政の三代に仕え、承応二年八十三歳にて岡山で卒去。

吉田多兵衛良方(覚兵衛とも)
叔父印西に預けられ弓を仕込まれる。十五歳で三十三間堂を射通し、遠矢四町を毎度射延すにより印西より唯授一人の印可を受ける。池田輝政に召し出され、大坂両陣に参ずるも浪人、作州津山の森家にいたが、森中将卒去で再度浪人、足守の木下公の客分を経て木下公の推挙により、承応元年池田光政に召し返される。寛文六年七十歳にて岡山で卒去。

つまり、吉田五兵衛は光政の祖父(輝政)の代から池田家に仕えており、幼少の光政を知り得るのに対し、多兵衛が光政に召し出されるのは五十六歳で、この時光政は四十四歳である。よって、光政が幼い時から弓を習ったのは、五兵衛定勝で、晩年は印西直伝の多兵衛に師事したと見てよかろう。又、「十五歳にして三十三間堂の通矢を射る」とあるのは多兵衛である。

なお、大和流の始祖である森川香山の『弓道自讃書』には「寛永八年 因幡国森川村に生まれ 寛永十四年 七歳にして備州にて弓始めを行ひその後に吉田五兵衛の門弟となる・・・」とある。この五兵衛こそ定勝その人である。寛永十四年といえば定勝六十七歳にあたるので、七歳の子供が六十七歳の老人に緊張しながら弦を執ってもらっている姿が目に浮かぶ。後に新流派「大和流」を立ち上げる森川香山も、最初はこの定勝の弟子であり、池田光政と森山香山は吉田五兵衛定勝を師とする兄弟弟子と言うことになる。

話は変わるが、『吉田葛巻系図』によると、光政が直に三十三間堂の射通しを試みていることがわかる。その当時は単なる腕ためしとして行われており、まだ堂射が天下一を争うて競技化する以前の話である。

また、光政が印可の巻物を自筆で書いて定勝が拝領したことが記されている。このことは吉田源之丞の書上による奉公書にも書かれており、寛永二年(一六二五)九月二日付けであったことがわかる。これは因州鳥取でのことで、岡山転封以前のことである。このとき光政は十七歳であり、十七歳で目録の腕前と定勝に認められたことがわかる。

尚、この光政直筆の弓目録は「定勝拝領仕り候」とあり、吉田定右衛門方に所持とあり、「吉田源之丞が家に秘蔵せり」とある。父の吉田五兵衛定勝が光政より拝領し、長男の定右衛門が所持していたというのが、穏当なところであろう。

この弓目録は現在所在不明であるが、流祖印西の奥書付きで、名君光政公の直筆の弓目録であるからテレビの「鑑定団」にでも出品されゝば、博物館行きなどと云われて、さぞ高値がつくことであろう。 さて、『吉田葛巻系図』には、さらに定勝と光政の親密ぶりを示すことが書かれている。弐百四拾石取りの定勝に弓を教える褒美として、光政が千石を与えるとの折紙を書いているのである。この折紙は仕置方の家老日置豊前に取り上げられて、実際には千石はもらえなかった。既に藩の財政はゆきずまり光政の思う通りにはならなかったものであろうか・・・。

この時の家老達とのいざこざがこの家断絶の伏線であったとの想像もありえよう。『吉田葛巻系図』では「(家老との間で)むすぼれこれあり」との微妙な言い回しで語られている。

吉田多兵衛良方についてのことであるが、『池田光政日記』を読み返していたところ、多兵衛が閉門を申しつけられた記述にぶつかった。江戸時代では他藩との人の出入りはとても厳重で、他藩の者を泊めたり、他藩を訪問するには、すべて藩への届出を要した。

多兵衛は足守に「客分」として住んでいたことがあり、木下利当公には池田家への推挙の労を取ってくれ、息子も召し出されており、よほど居心地がよかったものらしく、時には藩に届も出さず足守を訪ねることがあったらしい。良方も人間、ルーズなことも たまにはあるということか・・・。

さて、この度『池田家履歴略記』を見かえしていたところ、池田輝政言行録として弓の話が載っているのに気がついた。(史料一-二)の「名弓を所持する家臣のこと」である。光政の祖父である輝政も弓には関心が深かったことがよくわかる。また、吉田雪荷(日置流雪荷派の祖)の村(弓を削って形を整え弓の能力を上げる事)上手は天下に名高いとはよくいわれていることではあるが、輝政にまで知られていたとは驚きである。

軍事を担う侍のトップが兵器の知識に明るいのはあたりまえと言われるとそれまでのことではあるが・・・。


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