宗教とは何か




今日、日本のみならず世界において宗教が地に落ちており、宗教の姿は、歴史を背負った文化の形骸が残されているだけで、今日生きる人々を善導する役割からは遠くなってしまっているのが、実態であります。生活習慣の中に残っている形骸的なものを挙げてみますと、先ず、人の死を迎えたときの葬儀、葬儀から生まれるお墓の問題、何年忌のような法要など、宗教の種類に応じた行事が冠婚葬祭の形で残されています。町を歩けば、神社あり、お寺あり、教会ありで、宗教を思わせるものにぶつかることは、日常茶飯事のことであります。そうであるにも拘らず、現代の人々は、その存在の本当の意味について真面目に考えることがほとんどなくなってしまっているのが、現実です。

宗教がそのような現実でありながら、この世に生きていく人間は、厳しい現実の中で生きながらえていくことが運命的に定められており、その運命を甘受しながら生きる努力を継続しているのが、実情であります。しかし、実情はそれだけでなく、現実に生きていること自体が常に死に曝されていることを意味しており、そのことを意識して生きていおうがいまいが、どの人にも確実に死がやってきます。

宗教は、そのような死との対処のし方を人間に教えてくれるものであったはずです。しかし、人間は、生まれて以後物心付いてから、身近な人の死と出会わない限り、なかなか死が身近なものであるとの実感が湧かないものです。自ら死と向かい合わなければならない病などに見舞われない限り、死と自分とは無関係であるとの意識のまま何年も生き切ってしまうこともあります。

近年のように、子供の時代に神仏について真剣に教えられることもなく、唯、習慣や儀式で手を合わせたりお辞儀をしたりするだけで育ってしまった人間は、神仏が実在するなどと言う心境にはなかなか達し得ないのが、本当でしょう。存在するのは目に見え触って感ずることが出来る物質的なものだけである、と思い込んでしまっているのが実状です。

そのような物質的認識だけでいつまでも生き続けていくことが出来れば、宗教と言うものが生まれる必要性もなかったことでしょう。しかし、現実の世界では、自己が突然この世に生まれて来たように、現在存在しているその自己が、突然生きている活動を止めることが起こります。その時、確かなものであると思っていた物質的存在である自己の肉体も、朽ち滅びやがて消えていくものであることを悟らざるを得ません。その事実を認めざるを得ないことは、実際は、どの人にとっても堪えられないことであるはずです。

それ故に、いよいよ死が間近に迫り始める年齢に達すると、早い人では五十歳を迎えた頃から、晩い人でも還暦を過ぎた頃には、確実にやってくる死をどのように受け止めようか考え始めます。その表れとして、自己の死後のことを考えたお墓の準備であるとか、遅まきながら仏教やキリスト教などの門を叩いたり、新興宗教に頭を突っ込んだりして法話に耳を傾けたり、果ては仏門に入ったり、洗礼を受けたりするようになります。更に、回復見込みのない病に罹りはっきりと死を覚悟しなければならなくなると、死と向かい合う現実は、本当に生々しいものとなります。そのとき、宗教を持っていようと持っていまいと、死との対決の重さは変わりがないでしょう。そこには、全てを諦めるか何かを信ずるかの、いずれかしかないのです。

そのような人生の現実と対面した時、全てを諦めるのではなく何かを信ずる方を選ぶとしたら、そこに、信ずるよりどころとなる宗教の存在意義が浮上してきます。そのとき、信ずるよりどころとは一体何でしょうか。言い換えれば、死に臨んで、人間は一体何を信じようとするのでしょうか。

その解答は、もうひとつの選択肢であった「全てを諦める」ことの意味を問い詰めれば、明らかになってくることと思われます。

一体、「全てを諦める」と言うのは、何を諦めることになるのでしょうか。

言って見れば、「諦める」とは、「求めていたものを諦める」ことに違いありません。それでは、「求めていたもの」とは何でしょうか。

「求めていたもの」とは、そのために人生を生きてきたものに違いありません。それは、人それぞれ違った人生を生きてきており、その人だけの特別なものであったり、栄光・名誉であったり、実現達成したかった目標であったり、人により種々様々で、一概に言い切れるものではありません。しかし、はっきり言い切れることは、そのような求めるものを獲得していくための絶対条件である「生の持続」だけは、誰もが共通に求める根底になっている事実です。つまり、生の持続こそ人間が共通して求めているものであることが真理であるからこそ、死に臨んで人間が信じようと一番願うものが、「生の持続」そのものであると断言出来るのです。

肉体の死を迎えれば、肉体の生が断絶することは、誰も疑うことが出来ません。それにも拘らず「生の持続」を信じるのは、肉体の生以外に「生」があることを信ずることに他なりません。

肉体の生以外の生は、まさしく、「心の生」「思いの生」に違いありません。それは、言い換えれば、「信ずる心」の持続性・永遠性を意味しています。求める思い、信ずる思い、求める心、信ずる心、それが滅びざることを信じさせてくれるものが、人間が宗教に求めるよりどころであると言うことが出来ると思います。


書籍の購入方法

詳細ページ

本棚ページ

トップページ